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情報流通の逆転とサイクルマーケティング

例えば美味しいパン屋はいくらでもある。そんな中である店を経営している人と知り合いになり、その気持ちを知って共感する。そうするともう他で買う気はなくなる。それがエンゲージされた状態。

情報の誕生、成長、流通、出口まで、時系列に揃い、その一つ一つのプロセスが全て信頼する人の手を介して伝えられることで初めて完璧なメッセージになる。情報は、6人を介すると世界中の全員に届くということが実験で証明されていることを考えれば、最初の1人に正しく相対することのレバレッジ効果は機械的に配信される企業のマス広告を遥かに上回る。それは商品開発の段階、種を見つけるときのコミュニケーションからスタートしている。

コンテンツは意図せず広告になり、広告フォーマットはコンテンツ化する。純粋コンテンツと広告の垣根は無くなり続ける。情報の流通は、完全にマスからピン対ピンになリ続ける。流通した情報の質は、実体験だけでなくその拡散によって検証され続ける。

マス情報の流通の縮小と反比例して広告倫理的に重要になるのは発信者のアイデンティティが個人レベルで明らかであって、誰のクレジットで発信されているのかということではないだろうか。

あらゆるハードがオンライン上のエレメントとなり、AIがコンテンツすら自在に作る世の中は、好まなくても確実に実現するだろう。情報が誰の手を経てどう流れてきたかもトレースできること。これによって情報の信頼性を担保すること。これがオンライン社会で大きなテーマになるかもしれない。

日本の朝と「社畜予備軍」を生産する仕掛け

日本の会社員の朝は遅い。

ちょっと以前は大半の会社が9時出社だったと思うが、大半の人がほぼきっかり9時に出社しようとする。朝は少しでも眠っておこうということだ。

これが最近は9時15分、9時30分、10時と、どんどん遅くなっている。朝の出社時間が遅くなることで喜んでいる若い人は多いと思う。逆に今の時代に9時出社ということでは採用も苦戦しそうな状況だ。

しかしよく考えてみると、朝の出社時間が遅くなるということは、そのまま夜の退社時間の定時も遅くなるということになる。ワークアンドライフバランスが叫ばれているご時世であり、社畜、ブラック企業などという言葉が氾濫していながら、退社時間が遅くなり、ゆったりとしたプライベート時間を持てる時間を削るような仕掛けを歓迎していては、何にしても夜型になりがちな若いうちはともかく、長い目で考えれば自ら仕事とプライベートのバランスを取れない状況に追い込んでいるようなものだと考えたほうがいい。

以前アメリカで仕事をしたときには、17時にはほぼ全員が退社。まだ外が明るい18時ごろには家族や友人とレストランで食事を楽しんだりコンサートに出かけたり、といった光景が日常だった。

でもその代わり彼らの朝は早く、8時や7時に出勤してくる。家に書斎がある場合も多いので、レジャーを楽しんだ後に自宅で仕事、という人も多かった。自分で自分の時間が持てるようにコントロールしている人は多い。

一方、何をバランスしたいのかは人それぞれだと思うが、例えば19時に退社すると、自宅に着くのは20時。そこから楽しめる家族との時間はせいぜい2-3時間。子どもとの会話は殆ど持てないし、夕食を食べる時間も非常に遅くなる。結局、18時ぐらいから21時ぐらいまでの間にどれだけ仕事以外のことに集中する時間を自分次第で持てるかどうかが、クオリティオブライフの向上にはとても大事なことではないかと思う。

朝、遅く出社するとすぐにお昼の時間になるので本来もっとも生産性が良いはずの午前中に、生産量の最大値が物理的に削られている。仲間と一緒にお昼を食べに出かければ眠くなるので午後の生産性も低い=仕事が遅くなり、帰れない。

定時が何であれ、仕事が遅くまでかかってしまうことは常ではありつつ、規定の出社時間が遅いことをもって会社が提供してくれた福利厚生的なものだと考え、嬉しいと考えるのは、「私はこれから社畜になります」と言っているようなものだと、若い人は認識したほうが良いと思う。

石原莞爾と最終戦争論

石原莞爾という人が昭和の軍部にいた。満州事変を起こした。ここまでは少し歴史が好きな人だったら頭の片隅ぐらいにはあると思う。学校で教えられたことは、「満州事変で中国との戦争を引き起こした、先のよめない頭のイカレタ軍国主義者」ぐらいだと思う。

それくらいの認識はあったこの人について、なぜかふと興味を持ち、「最終戦争論」というものにたどりついた。彼が1940年ごろに講演した内容を筆記したもので、余計な脚色のない、彼自身の肉声と言える。

あまり期待をせずに読み始めたが、これが、読んでみるとバカみたいに面白い。戦後の日本の世代に対してある意味封印されてきているのは仕方ないが仕方なくない、化け物みたいな内容である。少なくとも日本の政治家はみな読んでおいて損は無い内容ではないかと思う。

なぜ面白いかといえば、彼が感覚的にとらえている世界をまたにかけた歴史の流れ、それに基づく未来予想が、ことごとく現代にあてはまっているからだ。かつ、彼がこの話しをしたのが1940年、真珠湾攻撃のちょうど1年前ぐらいであり、既に欧州では第二次大戦が始まっている(もちろん日本自身も日中戦争の真っ最中)という、激動の最中に語られたもので、当時日本の政治や軍部に対して大変大きな影響力をもっていたということ。そういった背景を考えると、当時の日本のトップクラスの秀才が何を考え、語り、どう日本の行動に影響を及ぼしたか、どこが封殺されたのか、といったことを窺うことができる。

いくつかピックアップしてみる。

「今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものであります」

「大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。、、(中略)その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。」

「この次の、ものすごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。」

「一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行われる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。」

「(最終決戦では)もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません。

「目下、日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を継続しております。しかしこの戦争も結局は日支両国が本当に提携するための悩みなのです」

「アジアの西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。」

「統制主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、安全弁を欠く結果となる。。(中略)統制主義の時代は、決して永く継続すべきものではないと確信する。」

「最終戦争を可能にする文明の飛躍的進歩は、半面に於て生活資材の充足を来たし、次第に今日のような経済至上の時代が解消するであろう」

「人類の前史は将に終わろうとしていることは確実であり、(中略)今後数十年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります」

「人類が経済の束縛からまぬがれ得るに従って、その最大関心は再び精神的方面に向けられ、戦争も利害の争いから主義の争いに変化する、、(中略)即ち最終戦争時代は、戦争の最大原因が既に主義となる時代に入りつつあるべきはずである。」

「発明奨励の方法は官僚的では絶対にいけない。よろしく成金を動員すべきである。独断で思い切った大金を投げ出し得るものでなければ、発明の奨励はできない」

航空機の時代が来ていること、最終兵器≒原爆のようなものの登場が迫っていること、究極の戦争のあとには戦いに明け暮れていた歴史が変わること、経済発展がおき、利害を超えた主義の争いが勃発すること、発明は奨励されるべきで、発明の促進は民間の投資家によって行われるべきであること。これらの思想に石原莞爾が到達したのは1940年よりも大分以前のことのようで、その後の日本と世界の歩みを考えれば、2015年の今にまで通じる的確な予想だというしかない。

一方、明晰であるようで、あくまでも「天皇」が未来の世界の諸国民の中心にあると考え、そこに対する疑問がないこと、中国を讃えつつ今の「犠牲」は仕方がないものだと捉えていること、などは、当時の視野の限界なのか、それとも当時の環境にいればこう判断することが本当の大局だと考えても仕方のないものなのかは、現代に生きる自分達にはなかなか判断のつかないことだ。

そして、大きな戦略を描きながら、まるで曲芸のようにその激しい戦いを生き抜くための戦略を、国家戦略として描くということ自体が無理があるということに気づかないところが、満州事変を起こした彼の姿に透けて見える。

 

 

Religions that drive the battles

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My view of simplified images of some religions and faiths that have been driving the world from the ancient.

It is so ironic that the religions are always the cause of troubles and bloody battles while all ask for a peace.

I feel I need to learn more especially about the truth of the Islamic world, behind many propaganda and news made for and by the western world.

責任。

あまりにも刺さる言葉だったので全文メモ。

 

さて、時々「オレはこの仕事から降りる」なんていう人いますよね。
「こんなんじゃ責任取れません!」とか言ったり。
ぼくはこういう人をうらやましく思えます。
いいなー、すぐ降りられて。
なんちゃって。

そのそも責任って何でしょうか。
責任ある人ってどういう人なんでしょうか。
ぼくは、気楽に降りられないこと、なんだと思うんですよ。
降りられないから、仕方なくでも踏ん張らざるを得ない。
踏ん張るからなんとか責任を果たせる。

だから、安易に「仕事から降りる」という人は気楽に思えちゃうんです。
「責任取れない」という人は、もともと責任なんかない人なんですよ。
責任がないから気楽に降りることもできるんです。
その代わり、そんなことを繰り返しているといつまでたっても腕は上がらない。

降りられないから、踏ん張らざるを得ないから、泣きながらでも何か打開策を探る。
過去の経験を生かしたり、多くの人の力を借りたり、知恵を出して解決への道筋を見つけていかなくちゃならない。
そういう努力をするから、腕も上がっていくんだと思うのです。

藤原和博『新しい道徳』ちくまプリマー新書\760-にこうありました。

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あなたが「夢」を追うためにも、もっと「自由」になるためにも、技術と経験を蓄積するのが王道なのである。
このとき、大事な言葉がもう一つ。
「自由」の裏腹である「責任」という言葉だ。
「責任」を引き受ける仕事の仕方をしなければ「技術」は蓄積しないだろう。
「経験」の蓄積も豊かにはならない。(158p)
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誰だって逃げたくなるような仕事はあります。
自分がそうなら他の人だって逃げたくなっているんです。
それを踏ん張って解決するから、技術と経験は蓄積し、他の人からのクレジットレベルも上がる。
逃げていたらダメですよね。

技術と経験が蓄積し、他の人からのクレジットレベルが上がっていくと、やりたいことがやれるようにもなれます。
やりたいことがやれる、すなわち「自由」です。
世の中にはまったく同じことなのに、それが許される人と、お前がそれをやっちゃマズイぜ、という人がいます。
それはクレジットレベルの違いなんですよね。

だって、結果に違いが出るからです。
クレジットレベルの高い人なら、困難があってもそれを克服して成功に導いてくれる見込みがある。
そうじゃない人は、またこの仕事から降りちゃうじゃないかって思われちゃう。

いい結果を出してくれる人と、中途半端で投げ出しちゃう人と、どちらに重要な仕事を任せるか、自明ですよね。
藤原さんはこうも言います。

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「責任」に裏打ちされていない「自由」は、ただの「奔放」にすぎない。(158p)
「責任」を引き受けて、はじめて、その「自由」な行動はクレジットに変わる。(159p)
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責任に裏打ちされていない自由なんか、意味がないってことですね。
子どもや若い人はよく「オレは自由に生きたいんだ」なんて言いますが、それは責任逃れでしかありません。
責任を引き受けて、嫌なこと、困難なことに出会っても、そこから逃げずに、ジタバタしながらも踏ん張って、知恵だし汗だしするから、自由も得られるということなんだと思います。

81歳の語録と「粋」。

81歳の職人にインタビューをして、韓国の若い人たちのネットの使い方は凄いね!と語られた。

どうしてそんなことを知ってるんですかと聞くと、テレビを見ていれば情報は入ってくるし、後は直感だと言う。小さな2畳の工房から世界を見ている。頭脳明晰。

諦めとは、「明目」だと言う。明らかに見えること。そこで初めて、諦め、諦観の境地に。明らかに見えるまでやりきって、深く究めてみて、初めて諦めという概念が出てくる。昇るまでは大変だ。根性で突き詰める。昇ってみたら小川だよ。諦めじゃなくて、明らかに見えている、ということ。

今でも仕事したいんだ。一時間でもいいから仕事したいんだ。職人は作るんですよ。詰まるところてめえが食えればいいんだ。商人は儲けるのが仕事だ。そこが違う。

コンピューターは、1から1000までいくらでも作れるけど、0から1を作れるのは人間だけなんだ、とも。

ちょこまか落ち着きのない小学生だって、教えてやるからそこ座れ、と言えばちゃんと座って話しを聞く。自分がやりたいことを教わろうとする人は、素直なんだよ。

なんでも夢中になるんだよ。

こんなことを、たくさん。

言っていることは、全部受け売りなんだよ、と笑っていたけど、全部受け売りで全然いいと思った。

大事なのはその思想、受け取った人の衝撃、自分事に置き換えられたときの思想の進化が、次に伝わっていくこと。そこで救われる人がいること。伝えることをやめて、自分だけのものにして、途切れて、知恵が失われることのデメリットより余程いい。表層の受け売りは問題じゃない。中身がその人自身の体験に置き換えられていれば、それはもう受け売りじゃない。

他人様の考えを、自分が考えました、人がやったことを、自分がやりました、みたいに言う、リスペクト精神の無い人もたくさんいるけれど。

人生とは蓄積だと思った。蓄積された結果のその人の知恵、世界観、歴史観についてのバランス感覚、いろんな問題も人の感情も、理解し、自分自身のこともよく知り尽くした上での、素の自分への許容、人を受け入れる気持ち、それでいて、本質に一歩でも近づこうとする厳しい心、静かで、人を傷つけることの無い、目的に対する、本人だけが持っている激しい情熱。

そういう、深い内面にあるあらゆる経験と考え抜いた思想を踏まえた上でなお失われない若さ、チャレンジ精神を感じさせるもの、それが、人の「粋」なんだと感じた。

最高に楽しい90分。人から人への贈り物。

尊敬される文化を持つということ

ドイツが欧州を救っている、というFTの広告。


ドイツが欧州を救っている、というFTの広告。

久しぶりに海外に出ていました。 そこで改めて感じたことは、
日本という国へのリスペクト。 海外に出て、日本人だと分かると、比較的丁寧な対応をされることがあります。
勘違いかもしれませんが、こちらをGentlemanとして扱ってくれるのです。つまり、日本人は文化人だ、という認識をされているということです。
日本人に会えた、ということに対して”今日はファンタスティックな日だ”という反応を示す人さえいます。

これまであまり意識しませんでしたが、今回は一人出張だったこともあり、頼りになるものも友人もいない中、日本へのリスペクトを背景に話しかけてくれる人が何人も現れたことは驚きでもあり、救いでもありました。

その中には勿論、勘違いもあるし、日本を必要以上に美化している人たちもいます。
が、そういう日本という国の印象を形作ってきた先人、現代においてはアニメや映画のクリエイターにも、本当に自分たちは感謝しなければいけない。
そう思いました。

同じアジアの国、アジアに限らず世界中の国で、その国の文化や習慣に対して幅広くリスペクトを示される国というのがどれだけあるのかと考えて見ると、それほど無いのではないかと思います。
基本的に日本人は真面目で、よく働くし、奥ゆかしく、礼儀正しい、という印象をもたれています。そして、そのことは非常にセクシーだと感じる外国人がそれなりにいます。

それは部分的には事実ではないかもしれないけど、そういう印象をもたれていることは、海外で何かをする際には何かとアドバンテージに働くことが多いのは間違いないと思います。
江戸時代、日本は鎖国を続け、それによって国が弱体化する可能性があったにも関わらず、規律と責任感を重視する武士によるある種の共和制的な統治体制が、精神的な部分での弱体化を防ぎ、寧ろ世界に通用する独自の道徳観と正義感を生み出したことは本当に素晴らしい。

今やサムライなどと言われてもこちらは時代錯誤を感じることもあるし、寧ろ、世界の中には日本人よりもサムライと呼ぶのにふさわしい人たちも沢山いるわけですが、世界の人は日本人というよりも、サムライの哲学とその生き方に憧れている。そのことは心のどこかにとどめておき、日本人としてはサムライの生き方に恥じないように背筋を正して世界で行動すれば、必ず世界で通用すると感じます。

よく、海外に出ると、Which country do you like?、などと聞かれます。

日本人は、自分たちの国のことは良く知っているので、憧れの国であるアメリカやイギリス、フランス、最近であればアジアの国を答える人も多いのではないかと思います。
が、僕は、日本も、世界のどこにも負けない、素晴らしい国だと思います。というよりも、はっきり言えばBest countryなんではないでしょうか。
だから最近では自分は素直に、Japanだと答えます。

日本には、世界にもっと理解され、採用されていい文化やモノの考え方が、沢山あります。その中には僕ら自身も理解していたり、過小評価していることがある。
日本のことを自分たち自身もよく理解し、世界のこともよく自分の肌で見聞きして、沢山の文化に触れる中で、これまで築いてきたreputationとrespectを、僕ら以降の世代にも絶やさないように、進化させながら受け継いでいかなければいけないと思います。
それは、大袈裟な話しというより、海外にでた日本人の1人1人が日々の行動の中で担っているもの。

出来ていないこと、未熟で至らないことは大量にあるわけで、独立してみたりすると、そういったことを尚更痛感することだらけですが、それでも日々、日本人としてはちょっとだけ背筋を張って、それでいて謙虚な心を忘れずに、行動したいと思います。

冒頭の写真は、ドイツが欧州を救っている、というFinancial Timeの特集です。

ドイツ人はヨーロッパ人の中でもっともよく働いているから、という選択肢が用意されています。
日本とドイツは捉えられ方としてはよく似た国ではないかと思ったので使ってみました。

欧米勢に勝たずにアジアで勝てる勝機はあるのか?

Googleの新しいプロジェクト、Project Loon。

また、グーグルにガツン!とやられた感覚をもったIT業界の人は大勢いるんじゃないでしょうか?一体自分たちは何をやってるんだろう?自分がやっていることに一体どれだけの人生を賭ける意味があるんだろう?なんて。

グーグルは、世の中の大半を占める我々中途半端な人種に、どれだけ無力感を与えるつもりなんでしょうね?w 最早その辺で野菜の露地栽培でもやって細々と暮らしていいのではないか?という気になりますが、まあそんなことを言っていても仕方ないので、無力は無力なりに前に進んで、神が作ったインフラの上で、神の手には負いきれないエリアで遊ばせてもらうしかありませんね。

 

ところで、こうネットサービスのグローバル化が進んでくると、IT企業もやはり海外に出て行かなければ成長機会を失う、と感じるわけで、相変わらず多くの企業が海外進出を企画しています。

が、アジアに出て行く日本企業の多くが、どうも、「アジアなら何とかなるかも」という感覚で出て行くように思います。

それは、日本企業のほうがアジア企業よりは金もあるし、技術も、ノウハウもある、という無意識の前提がそこにあります。

もしかするとそれは一部正しいのかもしれませんが、「現地を知らない」「現地語が分からない」というハンデを考えれば、そんなアドバンテージは殆ど何の役にも立たないのが現実だと思います。

実際、資金があまりかからないという点についても、「当の日本人自身がめちゃめちゃ金食い虫である」という事実を都合良く棚上げしています。日本人の給与をかんがえると、アジアの平均的会社員の20人分は働く必要があります。いくら日本人が優秀でも結構大変なことです。

そして、もっと多くの日本企業が忘れがちだと感じるのが、「美味しそうなところには欧米勢も目をつけている」という事実です。今であれば、日本企業よりも資金力を持った中国企業や韓国企業が同列に参戦してきています。彼らの投資は日本企業よりも余程組織的であり、必要な準備を整えた上で、一気に攻めてきます。浪花節でなんとかなるものだと考えている会社は殆ど無いんではないでしょうか。

ところが、多くのIT系の日本人と海外市場について話していて、欧米の企業のことが話題になることは殆どありません。サービス提供側も、広告主も、全てにわたって欧米ブランドが大量の資金を動かしているのに、です。

 

例えば、海外調査をして、この国の◯◯の市場は100億円市場だとする。

ですが、そのうち90%は欧米企業の予算だったりする。

これを取りにいかなければ、のこり10億円市場を他の日本企業やローカル企業と三つどもえで争うことになる。厳しい戦いです。

 

日本人は、ローカル企業の手が届かない一部のエリアにおいては、アジアにおいて自分達がマスターになりえると思いがちですが、そういったインターナショナル系事業における真のマスターは欧米勢であり、欧米勢に勝たなければ真の成功は得られない市場が大半を占めると思います。特にソフトサービス、情報サービスの戦場は、欧米勢の独壇場です。

欧米勢は侮り難いです。彼らの侮り難さの背景には、巨大な資金力、超大型予算を持つグローバル企業とのネットワーク力、情報発信戦略への理解とそれによる強力なブランド力、そしてグローバル展開を現実のものにする人事組織力があります。特に後者2つは日本企業が極めて軽視する分野ですが、実際にはここで負けるとほぼ勝ち目がありません。

日本人がそこに勝つには、アジアにおいて同じ想いを持つアジアの人たちを味方につけ、運命共同体としてお互いに教えを請いながら、一緒になって戦うしかありません。

そして、単にアジアで勝つことではなく、強力な欧米勢を圧倒するつもりで事業展開するビジョンと、そこに対する確信が必要です。ここに賛同してくれる挑戦的なアジアの人はどの国にも少なからず確実にいるというのが自分の印象です。

 

自分自身、海外事業の立ち上げを行ったときには、実際に展開してみると、すぐにそれが「グローバルビジネス」であることが分かりました。つまり、グローバルプレイヤーとのガチンコの戦いだった、ということです。

僕らが追い求めていたのは、本格的なビジネスだったので、一貫して、自分たちが攻めているエリアにおける圧倒的No.1になり、グローバルプレイヤーを駆逐するつもりでやっていました。

注意しなければいけないのは、欧米系の企業を相手に戦っていると、あたかも、遠く欧米からやってきた白人を相手にしているのかと思いがちですが、実際に相手にしているのは、彼らに高給で採用された、各国の超優秀な幹部社員であることが多い、ということです。

つまりブランドこそグローバル企業ですが、中身は最優秀なローカル企業だったりします。実態がどうなのか、よく見極める必要があります。

よく、同じアジア人である日本人の我々にはカルチャー理解という点でアドバンテージがあると思いがちですが、そんなことを持ち出すと、失笑されるだけ、ということです。

自分達が置かれていたステージを考えれば、圧倒的No.1を目指すなんてことは滑稽なアイデアだったかもしれないですし、実際内外からそう言われることもよくありました。社内ですら無理だという悲観的な空気は頻繁に出ていました。が、こちらは大真面目で考えていたし、それが出来ることについての確信もありました。出来ない理由ではなく、それを可能にするための施策だけを考えて進めていたわけです。

 

海外畑から離れてもう1年以上経ちますが、あらためて、アジアに出て行くのであれば、欧米勢についてもよく調べて、彼らに本気で勝つための戦略を考え、アジア人同士で結束して、自分たちが定めたエリアで世界一になる、というビジョンを持って出て行ったほうがよい、と思います。

そういう意味では、よく外野の批判にさらされるサッカー日本代表と、海外に出て行く日本人ビジネスマンは共感できるポイント多いんじゃないかと。

頑張れ日本代表!

最近自分がヒットした動画です。川崎選手ホントにかっこいいですね!

 

まあビジネスなので、上手にできることにこしたことはないわけで、こんな正面衝突戦略には異論もあると思いますが、どうでしょうか。

To the leaders of the three countries who must lead Asia and the World.

Today, my morning started with a disruptive news that one
of young Japanese political leader mentioned his personal view
about the necessity of sexual services for soldiers during wartime and it must be justified as it was historically accepted as such.

It is not so unusual to see such politician’s radical and biased opinion in a news as we all know, but because
it’s been just a few days since we saw a controversial mentioning about Islamic culture by Tokyo governor which threw Tokyo into a difficult position in the candidacy race to win the Olympic 2020 (by the way who cares about it in Tokyo?), I was so disappointed to hear that news and shocked to know inability of those political leaders to learn.

Historically accepted or not was
not an issue. If the comfort woman problem was a reality or not was
not an issue, neither. The real problem I saw was he spoke out to the nation (even on his twitter account) as his way of thinking that it should be justified if other nations do the same, and those
oppressed people if there were should accept it to some extent as it was a requirement of the era.

National leader must not speak in such a way.

Here is the situation we see in the political scene these
days.

China steps into the Japanese territory around the disputed island everyday just to show they are brave but they don’t know they look like just a thief.

Korea is trying to set up several int’l diplomatic meetings w/o calling Japan, even in the case it’s about their national security where Japan obviously has a concern because they want to behave Japan is not important for them while
it’s not true.

On the other hand, many Japanese politicians continually behave arrogantly and show they don’t have real sympathy or respect to the other cultures.

I think all of these are not about the history. These are about their own personality. All idiot and childish nationalisms.
Sometimes I feel it’s because of
these three countries that Asia can’t lead the world for long time. It’s been obvious from 1860s.

All should watch this video every time before they talk about any diplomatically sensitive issues, and should know how the pride of the nation should be shown.

感覚値に訴える印刷コンテンツの世界に、テキスト文化のウェブがもたらすもの

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最近仕事柄、そのあたりに沢山置いてある情報誌、タウンペーパー、フリーペーパー、ちらしのようなものを注意して見るようになりました。

そうやってよく見てみて気付いたのが、誌面の大部分が写真やデザインフォントで飾られていて、しっかり文章が書かれているものは実はあまりない。普通の人がブログに書くようなレベルの文章のほうが文章量としては多かったりする。たまにしっかり文章が書いてあるなと思うと、それは企業のタイアップ広告記事だったりする。

つまり、印刷物は、視覚的に美しくデザインし、レイアウトすることで、そこに大量の情報コンテンツがあるような錯覚を与えることに成功している。逆に言うと、印刷物の場合、テキストで情報を伝えるよりも、一目で何かを語るような写真とそのデコレーション技術だけでもかなりのボリュームのコミュニケーションを行うことが可能だということ。

一方、ウェブ上での情報の主体はテキスト情報であり、フォントもそれほど多様ではないので、あまりごまかしが効かず、テキストのボリュームの少ないコンテンツは文字通り薄いコンテンツという捉え方になる。よく、通信社から配信されてくるニュース記事などを見ると、タイトルで引きつける割りにはニュース本文のボリュームが非常に少なく、「わざわざクリックさせておいてこれだけ?」と思うようなことがありますが、それがその典型的な例かと思います。

先日、ある著名雑誌の編集長が、雑誌のコンテンツをウェブに展開するのはかなり難しいんだ、ということを仰っていました。その時は、元のコンテンツのボリュームが相当あるのにどう難しいのか?、と、いまいちピンと来ていなかったのですが、実はそういうことなのかもしれない。つまり、できるだけ読まなければいけない情報を削ぎ落とし、視覚情報8割ぐらいの感覚イメージで訴求するのが出版の世界で、「読む文化」が主体のロジカル訴求のウェブとは大分異なるということ。

そう考えると、ブログを更新し続けている人など、この膨大なコンテンツが氾濫するウェブ空間の中で多くの読者を集め、鍛えられているような人のほうが、実は紙の世界のライターよりも文章力があるという世の中に既になりつつあるのかもしれません。

同時に、いま、印刷の世界で、本当はもっと物を書きたいのになかなか紙面や予算の関係で思うように書けずに、力を発揮できていないと感じているライターや記者の方も沢山いるのではないかという気がする。そういう人たちは、実はウェブ上で思う存分に書いていただいたほうが、その本当の実力を発散できる可能性が十分にある。

これまで、紙からウェブの世界への情報発信の軸が移り変わっていくことについては、主にビジネスモデルの観点から比較的消極的な論調が多いですが、実は、本物の物書きにとっては、寧ろウェブの世界に移行することが必然で必要なことであって、本来あるべき価値に回帰できるチャンスだと考えてもいいのかもしれません。

自分は今までこの事実にあまり気付いていなかったので、やはり「書く」という文化の主体は印刷物だと思っていましたが、実態としてはそうではない可能性があるということで、最近自分が興味がある、オンラインとオフラインのハイブリッド出版というもの意味合いを考える上でも面白い発見になりました。