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感覚値に訴える印刷コンテンツの世界に、テキスト文化のウェブがもたらすもの

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最近仕事柄、そのあたりに沢山置いてある情報誌、タウンペーパー、フリーペーパー、ちらしのようなものを注意して見るようになりました。

そうやってよく見てみて気付いたのが、誌面の大部分が写真やデザインフォントで飾られていて、しっかり文章が書かれているものは実はあまりない。普通の人がブログに書くようなレベルの文章のほうが文章量としては多かったりする。たまにしっかり文章が書いてあるなと思うと、それは企業のタイアップ広告記事だったりする。

つまり、印刷物は、視覚的に美しくデザインし、レイアウトすることで、そこに大量の情報コンテンツがあるような錯覚を与えることに成功している。逆に言うと、印刷物の場合、テキストで情報を伝えるよりも、一目で何かを語るような写真とそのデコレーション技術だけでもかなりのボリュームのコミュニケーションを行うことが可能だということ。

一方、ウェブ上での情報の主体はテキスト情報であり、フォントもそれほど多様ではないので、あまりごまかしが効かず、テキストのボリュームの少ないコンテンツは文字通り薄いコンテンツという捉え方になる。よく、通信社から配信されてくるニュース記事などを見ると、タイトルで引きつける割りにはニュース本文のボリュームが非常に少なく、「わざわざクリックさせておいてこれだけ?」と思うようなことがありますが、それがその典型的な例かと思います。

先日、ある著名雑誌の編集長が、雑誌のコンテンツをウェブに展開するのはかなり難しいんだ、ということを仰っていました。その時は、元のコンテンツのボリュームが相当あるのにどう難しいのか?、と、いまいちピンと来ていなかったのですが、実はそういうことなのかもしれない。つまり、できるだけ読まなければいけない情報を削ぎ落とし、視覚情報8割ぐらいの感覚イメージで訴求するのが出版の世界で、「読む文化」が主体のロジカル訴求のウェブとは大分異なるということ。

そう考えると、ブログを更新し続けている人など、この膨大なコンテンツが氾濫するウェブ空間の中で多くの読者を集め、鍛えられているような人のほうが、実は紙の世界のライターよりも文章力があるという世の中に既になりつつあるのかもしれません。

同時に、いま、印刷の世界で、本当はもっと物を書きたいのになかなか紙面や予算の関係で思うように書けずに、力を発揮できていないと感じているライターや記者の方も沢山いるのではないかという気がする。そういう人たちは、実はウェブ上で思う存分に書いていただいたほうが、その本当の実力を発散できる可能性が十分にある。

これまで、紙からウェブの世界への情報発信の軸が移り変わっていくことについては、主にビジネスモデルの観点から比較的消極的な論調が多いですが、実は、本物の物書きにとっては、寧ろウェブの世界に移行することが必然で必要なことであって、本来あるべき価値に回帰できるチャンスだと考えてもいいのかもしれません。

自分は今までこの事実にあまり気付いていなかったので、やはり「書く」という文化の主体は印刷物だと思っていましたが、実態としてはそうではない可能性があるということで、最近自分が興味がある、オンラインとオフラインのハイブリッド出版というもの意味合いを考える上でも面白い発見になりました。

海外進出をまかせられた日本企業の日本人社員の一番大事な役割

北京のスターバックス

北京のスターバックス

日本企業が海外展開を迫られるなか、海外で事業立ち上げなどを任される日本人は今後もますます増えるのだろうと思います。

が、肩肘をはって、俺は海外でもやれるはずだ、その土地に骨を埋める覚悟で、とか、グローバルビジネスマンになるんだ、とか、そんなことは思わなくていいと思っています。

知らない土地に行くのに、そんな覚悟を決めるのは非現実的です。

大体、そんな覚悟を決めなければいけないような人はあまり海外に向いていないです。その人がやれることは、たいがい、現地の人にしっかりした給与と目標と権限をあたえてやってもらえば、その人よりもずっと上手にやるはずです。

あまりに仕事仕事と考えている生真面目な人ほど、プレッシャーと義務感、故郷に錦を飾るんだ、という感覚が強すぎて、気がつけば事務所とアパートの往復しかしていない日々を過ごし、本社の日本人との関係だけを頼りに何ヶ月も孤独に過ごすことになります。 肩肘をはらず、余暇をみつけてはいろんな地方を巡り、現地の人たちと友達になり、そういうスタンスを大事にしておかなければ、現地マーケットを知る人間になる、という、会社にとっても自分個人のキャリアにとっても一番大事なミッションを実現できないのは自明のことです。

それよりも、自分がさっさと日本に帰ってこれるように、信頼に足る優秀な人を採用するための権限規定と給与モデル、そしてどういう付加価値をそのマーケットで出していきたいのかという、事業ビジョンを明確にすることに全力を注ぐべきです。それが日本から出ていく海外進出隊長の、最大の役割です。

日本に進出してくる外資の社長が、日本人をさしおいて日本語も分からないのにガンガン営業に出ていって、自分の思い込みで捉えた市場環境を本社に報告していたらどう思うか?という問題です。余程優秀な外国人でもない限り、きっと、その外国人社長はとんちんかんなことばっかりやっているに違いないし、日本人スタッフはやることもないから辞めるでしょう。

日本企業の多くがこれをなかなかできないでいるのは、海外進出にあたっての明確な目標やビジョンを後回しにしており、そのために現地採用スタッフの達成すべき目標と成果報酬を決め、それを達成するための必要な予算と権限を与える、ということを実行するのが非常に困難だからです。

ですが、この壁を超えてグローバル標準でやるか、徹底的に日本型でやるのか、それをまず経営意思としてはっきりさせ、従業員にも理解させるのはとても重要なことです。

このようなことも、まだ海外に実際に行ってないこれからの人にはなかなか意味が理解できないと思いますが、少し頭の片隅に置いておいてもらうと、現地での仕事で行き詰まったときにも、明確なゴールが見えてきて楽になるときがくるのではと思います。

広告モデルの違い:FacebookとGoogle

最近仕事の関係で広告業界の情報を大量にインプットし続けている。

モバイル領域の拡大とともに膨大な広告テクノロジーとスタートアップが新しく出て来ていて、既に業界関係者ですらその1つ1つの違いを理解するのが困難になってきていると思うが、ずっとトレンドを追っていると、結局、一部のニッチ領域を除き、市場自体は二つの企業によってその大半が専有されていくのだろうという、ある意味の諦め感というか、ゴールが見えてしまっているような感覚が生まれている。言うまでもなく、その2社は、GoogleとFacebook。

ただ、この2社の広告配信技術は、根本的に違う軸に基づくものなので、「どちらが覇者になるのか?」という議論が米国メディアでもよく取り上げられるが、いろいろニュース情報を見ているとどうやら行き着く先はそういうものでもなさそうだということで、両社の広告の特性が何なのか、備忘録を兼ねて整理してみた。

①広告配信のベースになるもの

Googleはクローラーが取得するテキスト情報とメタ情報。

Facebookはソーシャルグラフとユーザー属性。つまり人情報。

②広告配信先

Googleは静的な情報(ストック)に対して配信する。

Facebookは人(フロー)に対して配信する。

③広告配信方法

Googleは、Adsenseもあるが、基本的には能動的な情報検索アクションに対するレスポンスとしての配信である。

一方、Facebookは、属性とソーシャルグラフを元にしたプッシュ配信であり、ユーザから見れば受動的行動である。

 

細かな技術革新や買収、周辺領域サービスとの連携拡大などによって、2社の広告配信技術はどんどん変わっていくであろうけども、ベースがそれぞれ検索エンジンとソーシャルネットワークである以上、広告配信の発展の道も、基本概念は上記から殆ど変わらないのではないかと思う。

と捉えると、この2社の技術は、そのベースの発想や適性が異なるので、なかなか正面からぶつかることはないし、インターネット上に今後も膨大な数のサービスやサイトが生まれる中で、どちらかの技術で広告市場がdominateされるという事もなく、それぞれが、ストックとフローという、ネットの情報流通の中で絶対になくならない要素と密接にかかわり合った基幹広告インフラとして成長していく気がする。つまり、それぞれの得意領域で圧倒的に高い広告効果を出したとしても、相手の得意領域の中では、お互いになかなか勝てそうにない、ということ。

それにしても、今年のFacebookのモバイル向け広告ビジネスは段違いの成長となりそう。他の全ての広告テクノロジー会社の努力が霞んで見えるような成長を見せるのではないかという予感がしている。

日本の個人寄付市場拡大のカギを握る戦略は何なのか?

寄付集めの実績を誇らしげに掲げる寄付キャンペーン実施会社の看板@2012 NTEN in S.F.

寄付集めの実績を誇らしげに掲げる寄付キャンペーン実施会社の看板@2012 NTEN in S.F.

また、NPO/NGOと呼ばれる非営利業界のお話。

 

ちなみに、非営利業界というとそれは何を指しているのか、一体どういう企業体なのか、呼称として誤解/混乱を招きやすいので、僕は最近、パブリックセクター、という言い方をし始めている。

つまり、「公益」のための事業を行う民間団体なので、日本語にすれば民間公益業界、とでもなるかもしれない。

 

という前向きはともかく、最近始めようとしている、この、主に民間公益業界向けに提供していこうとしている事業の絡みで、一体、どういう水準の経済的成功をもたらせば、事業として成功基準と言えるのか?、ということを考えていた。

 

それを考えるとき、よく話しになるのが、日本では寄付市場が発達していないという話し。

引き合いとしてはよく、20兆円もの巨額な個人寄付マーケットが存在するアメリカが引き合いに出される。

そんなマーケットを比較に出されると日本だって3兆円5兆円みたいな世界にいけるのではないかとなんとなく安易な妄想に浸ってしまいそうになるが、果たして本当にそうか?、それは現実的なターゲットになりうるのか?、と思い、改めてラフではあるがマクロに分析してみることにした。

 

まず、寄付市場というとよくアメリカを引き合いに出すが、寄付がお祭り騒ぎすぎるし世帯の所得格差なども参考にならない新大陸国家なので、国の構造や文化として日本とより近い英国と比較してみる。

 

英国の寄付市場は2006年時点で1.5兆円。個人寄付はうち7割なので1兆円強である。

日本の市場は遅れていると言われているのだから、英国の2006年あたりと比較してもまずまず良い指標であろうということで、これをベースにしてみる。

 

そうすると、日本は人口は倍なので、単純計算して2兆円が寄付に行く余地があることになる。「文化の違い」を考慮して思い切り寄付率を差し引いて6掛けぐらいにしても1.2兆円ぐらいいけそうである。

実際には日本の寄付市場1兆円で個人寄付はうち5000億ぐらい。なので、追加で7000億円ぐらい引き上げる余地、つまり今の倍ぐらいに行くポテンシャルは本来あるということになる。でも、逆にいうと、3倍はともかく、4倍いくかどうかは微妙、ということでもある。こう見てみると、米国との比較なら50倍15倍に伸びる必要があるが、それはかなり夢物語だなあ、という現実ラインが見えてくる。ちなみにオンライン寄付額が、米国と同様の5%程度になるとすると、オンライン寄付市場は350億円ぐらいのマーケットになる。

 

次に、実際に誰が寄付するのか、ということを考えてみる。

もちろん、大学生以下に寄付を期待することはできない。ということで、日本の25才以上の人口は9500万人ぐらい。これがまず母体である。うち、子どもが社会に出て寄付余力がありそうな50才以上の人口は6000万人になる。よく言われるように、ここの年代がどんどん増えているのが日本の人口動向だ。

 

最後に、それらの寄付母体に対してアプローチすべき手段を考える。

いま、寄付文化を作ろうという動きがあるがそのメインはオンラインやソーシャルでの取組みばかりだ。オンラインサービスが発達して誰でも意思さえあればネットにアクセスできる時代がきているのだからこれは至極当然の流れである。

ただ、冷静に考えてみると、現時点でネット上の小難しい寄付サービスが、ターゲットに出来そうな25才〜39才の人口は2500万人しかいない。

その10%が継続的な寄付人口になるという驚異的な結果が仮に生まれたとしても、寄付余力としては年間5000円程度が関の山なので、総額で125億円の増加にしかならない。単純計算しても仕方ないが、これを全国5万の非営利団体が分かち合うと、なんと1団体あたり、25万円にしかならない(!)。

となると、いまの、クラウドファンディングだなんだという騒ぎは、この20-30代へ主にアピールしているため(しかできないため)、この25万円を分捕り合うための仕掛けにしかなっていないのだ、と考えてもそんなにズレは無いのではないだろうか。個々の団体でたまに成功事例があったとしても、トータルで考えればなかなか厳しい取りくみである。

 

実は、本当に寄付マーケットを伸ばしたければ、残りの7000万人。特に50代以上の支出余力がある6000万人の中高齢者マーケットにどうリーチし、寄付行為に対するどういうインセンティブを与えるのか。そこをソフトランディングさせる手段を考えなければ出口が無いのではないだろうか。

オンラインでの寄付募集活動以外に目立った突破口が見えない中、一方で大きな財布を持っているのは中高齢者であるというギャップにどうアプローチできるか。

テクノロジーソリューションの提供サイドにいる我々世代は、これを考えないといけない。

それが今日のところの結論。

完璧な感動:オーケストラを見にいこう

ベートヴェン『第九』特別演奏会 by 東京フィルハーモニー交響楽団 場所:東京オペラシティ Dec/21, 2012 大植英治指揮

ベートヴェン『第九』特別演奏会(大植英治指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)

心の底、むしろ全身から感動。

どこかの映画のパンフレットみたいだけど、感動に震えた。

 

12月21日(金)に、ご招待を受けて、東京フィルハーモニー交響楽団の第九のコンサートに行ってきた。

いくつか、小規模な音楽会、には行ったことがあるが、本格的なオーケストラの本格的な交響曲の演奏を聞くのはもう何年ぶりだかもう思い出せない。

 

場所は東京オペラシティコンサートホール

行ったことがある人からすればそんなことは何を今更、かもしれないが、アプローチからして素晴らしい。あの長い階段から既に演出が始まっている。そこを昇る他の方たちも、一緒にこれからコンサートを見るんだな、という微妙な一体感を味わいながらそこを昇る。横にエスカレーターもあるけれど、やっぱり、大きな空間に広がる階段を踏みしめながらアプローチするのが、オペラシティを設計した建築家の心意気が楽しめるのではないかと勝手に思う。

 

いや、絶対に階段を昇るべき。

建築家は故人で、名は、武満徹、というらしい。

 

ゲートをくぐり、レセプションエリアを入ると左手にホールがある。

何気なくホールの扉を抜けると、圧倒的な空間。これも、文字にしたくないぐらいだが、圧倒的。

 

オペラシティの公式サイトの写真が伝わりきらない気がするけど、仕方ないので載せておく。実際はこれの何倍もいい。何がいいって、床を踏んだときの感触が何とも言えずいい。そんなの写真で表現できるわけがないか。だから、行くしかない。

東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル

東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル

ちなみにホール内は撮影禁止。撮影すると怒られますので注意。僕は見事に怒られた。。

 

有り難いことに招待券で凄く良い席に行かせて頂いたせいか、席に座ると、座席の周りの方はみな、何かしら成功したような人達ばかりで、「社長、うちの社員の人間が今回の衆院選で当選しまして」なんて話しが飛び交っていた。

 

客席の少し照明が暗くなると、オーケストラの方が入場してきて、続いて指揮者の大植さんが入場してくると、意外にすぐに演奏が始まる。曲目はモーツァルトから始まり、後半が第九。

 

演奏が始まってからしばらく、まずは物珍しさに目を凝らしてステージを見ていた。そのうち、視覚にとらわれているいるような気がした僕は、生意気にも耳だけで聞いてみけばもっと音を感じられるんじゃないか、と思って目を閉じてみた。

意外に気持ちに響かない。

 

目を開けてみると、バイオリンやコントラバスの弓の、旋律に沿った激しい動き。それぞれに演奏している方ひとりひとりの表情にある緊張感、特に自分のパートを弾き始める前の構えに入るときの緊張感。意味不明な高速な指の動き。そしてその全体のオーラを引き出している指揮者の全身の筋肉の躍動。こういうのが全部飛び込んでくる。

そういうこと、全体のその演奏の人間臭さも含めた上で完璧を求めていって、いまそこでステージの上でその最高レベルの結晶をただその表現することを目的に表現しようとして全員がそれに没頭している、そういう姿を見ていると、どうして人間は、ただ単に生きるということだけでなくこういうものを生み出したり理想を追究することに時間を費やしてきたんだろう、ベートーヴェンがこの曲を作ったときどういう気持ちで1つ1つの音符を譜面に書いていたんだろう、それを初めて演奏したときはどうやって楽団が組織され、初めてその譜面に向き合った人達は耳の聞こえないベートーヴェンの楽譜をどう読み込んで演奏にしたんだろう、そもそも長い歴史を経て色々な楽器やオーケストラが演奏されるような環境がヨーロッパで生まれて、それが長い年月を経て日本に渡ってきて、沢山の人がそこに未だに情熱を燃やしていて、いまこうやって僕らがその演奏を聞いてまた感動させられていて、とか、いろいろな思いを引き起こされる。

 

こっちも目、耳、皮膚に来る波動、こういうものを全部総動員して聞くから聞くのも結構疲れる。正直言うと、5分ぐらい音楽に没頭して、ふと疲れて、「あと何分で終わるんだろ?」って思ったりもするw。音楽に没入して、オーケストラで癒される、なんて話しがあるけれど、あれはウソじゃないの?と思う。あれは、音を表現してるというより音でストーリーを表現しようとしている尋常じゃない人の緊張パワーの塊が押し寄せてくるのだから、聞いてるこっちも緊張する。第九なんて70分もある。70分間、スパルタ教師の授業受けてるのと一緒。ゆっくりゆったりしてなんかいられない。だから、楽章と楽章の間に、沢山の人の咳払いが聞こえる。あれは、みなが緊張した後の緊張のほぐしに違いない。楽章の間の間がなかったら、みな、ヘトヘトなはず。

そうこうしている間に、ラストのクライマックスへ。

 

最後は、剽軽な大坂のおじさん、みたいに思った、指揮者の大植英次さんの小柄な体が爆発するように激しく動き、それはまるで最後に大玉の花火がドカン!と打ち上がったような感じで、それに即応で会場側からも新年明けの爆竹のように拍手が湧き起こり、鳴り止まなかった。そこにいた全ての人の心がつながった瞬間だった。

指揮者は、いったんステージにあがったら、あれは指揮しているのではなくて、自分のパートの音でしか表現できない演奏者1人1人の気持ちを、体全身で代弁してあげることで応えてあげるというのが最後の役割なような気がした。大植さん、最高。

 

完璧な感動。

 

日本は感性の国だから、オーケストラはこれからも世界水準だろう。また行こうと思う。

Googleはなぜキングなのか。

最近、GoogleのLarry Pageのインタビューを読む機会があり、見事にブレないなと思わされたところ。

そして、今日もそう思わせる記事がリリースされていた。(写真をクリック)

Google to Tackle Mobile’s Fat Finger Proglem

Googleが、モバイル端末上でユーザが間違って広告を押してしまうことにより、意図せず広告サイトに遷移してしまう問題を解決するため、AdMobに新しいテクノロジーを導入し、広告に触れたときに本当にそれが意図的なものなのかどうかを確認するステップを入れられるようにした、というリリース。

Googleが、単に検索エンジンの王者なのではなく、なぜネット広告業界のキングであり続けるのか。

ネット広告ビジネスが次から次へと生まれるのに、結局のところ、Google一社でいいんではないの?と思わせる要因はどこにあるのか。

その答えの1つがここにあると思う。

つまり、普通のネット広告事業会社は、「いかにクリックさせるか」という視点でプロダクトを開発するのに対して、Googleは、「いかに”無駄な”クリックをさせないか」という視点でその広告商品を開発している(ように思える)。

このGoogleのアプローチと、同じアプローチを根本思想にもって広告商品を開発している会社は他にあまり無いのでは?と思う。

これからモバイル広告が増々収益の柱と化していくであろうこの時期に、今回のリリースのような手を打ってくるところが、やっぱりいいPhilosophyを持った会社だ。結局こういうところにその事業そのものが持つエンゲージメント力が内在されるのは疑い無い。

信道の精神で、見習いたいと思います。

われわれが開発しているものは何なのか?

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「今後の施策をみなで考えよう」

こういってプロジェクトメンバーで一緒に集まり、みなで考える。

みなでウンウン唸って考える。考える。

何も出てこない。

5時間たち、やっぱりまだ何も出てこない。

出てきたものはありきたりでいまいちみな自分自身納得しきれていない。

まあでもとりあえずこれで進もう。きっとこれが一番のはずだ。よし。取り敢えず走ろう。

 

センセーショナルなデビューを飾ったとしても、それを継続できるチームは少ししかいない。一方、地味にずっと業界をリードし続けている企業や事業は知らないだけで沢山ある。

レディーガガはあっという間に世界の音楽シーンのトップに立った。しかしそれを続けることのほうが大変だ。それを過酷な競争環境の中で何年も続けているのだからレディーガガ・チームはスーパーチームに違いない。

 

おそらくWebサービスに限った話しではないが、プロダクト開発をしはじめると、想定していた利用者の反応と実際が違っていたり、思ったように利用者が集まらなかったり、どこかで一度暗礁に乗り上げるときがある。

一度盛り上がったサービスも、ユーザが飽きてきて、新しい何かを提供しなければいけないのに、みんなで考えてもナイスなアイデアが浮かばない。

そうこうしているうちに事業モーメンタムが縮小していく。売上も下がる。諦めの気分が広がる。短期的な施策を実施し、短期的な結果で終わる。自転車操業のようにまた短期的な施策を考えて実施する。

「もう結構頑張ったし、コンセプトを変えてまた新しいことやろうか」

よく起きることだと思う。

なぜこんなにアイデアに枯渇するのか。前進感なく流されるようにチームは自転車操業を続けるのか。

 

一方で、まるで毎月のように着々と新しい改善を加え、驚くような施策をうってくるサービスもある。アイデアに枯渇している事業は、残念ながらいつまで経っても万年フォロワーである。そんな考えがあったのか!とその成功モデルを取り入れることに一生懸命になる。

なぜリーダーになれる事業とフォロワーになる事業は固定化されるのか。

 

 

ウェブサービスに限らないと思うが、プロダクト開発をしばらく続けていると、開発しているのは機能ではないということに気付かされる。

開発しているのはそれを使う側の人の豊かになる気持ちだったり、そこにアプローチしてくる人のマインドだったり、新しい学びだったり、そういう派生していく内側のものをサービスを通じて開発している。

ここに気付いているチーム、何を開発しているのかをビジョンとして描いているチームは、機能の次元のアイデアに枯渇することは無い。寧ろ、実現できていない施策の山に常に埋もれている。

人の内側にしっかりと刻まれる記憶を開発する。それがまるで一つの生き物のように定期的にシグナルを発する記憶を刻む。

それが究極のビジネスモデル。

ウェブサービスは特に、五感で感じることが難しく、機能開発も簡単に出来てしまう。そのため、「マッシュアップ」したりちょっと手を加えることで開発だと捉えてしまいがちな部分があるように思う。

しかしそれは開発しているのではなく、綺麗に整頓しているだけだ。

 

ウェブ業界に入って8年ほどになるが、サービスにしろ広告商品にしろ、組織体制にしろ、あらゆるものがマッシュアップされ、それを開発だ、企画だ、と言うことが多い。

 

先日プロダクトデザインの現場に入っていったデザイナーの方と話しをする機会があった。

プロダクトデザインはウェブデザインと異なり、まずそもそも三次元になる。

三次元になるとどういうことが起きるかというと、手でさわったり、口で触れたり、体ごとそこに乗っかったり、そういうことが出来るようになる。つまりプロダクトを全身で体感することになる。

同じ用に形を作っても、素材の耐久性や柔軟性、感触など、いろいろな要素があり、それらを学んだ上で適切な選択をしなければならない。そこから既にデザインが始まっている。

それらを全て含んだ上での利用者体験を開発していることになる。

マッシュアップ、しただけでも製品は作れるだろうけど、すぐにそれは在庫の山となって破綻する。ウェブサービスの場合は積み上がる在庫という恐怖が無いので、簡単に隠れ在庫を作ってしまえる。

 

面白いだけでも、便利なだけでも不足している。

人が自然と温かく、心地良くなれるような、気持ちそのものに焦点を当てて、そのための手段としてサービスを作る。

そういうプロダクトは自然とリーダーになる。仮に他に競合がいても、市場を引っ張る双璧、と言われてお互いに切磋琢磨するだけのこと。施策に困ったり、競合に追われたり、市場環境の変化についていけずに自転車操業になることもない。施策は溢れ出る。悩むのはそれをどう実行するか、の部分。

これがビジネスのコアモデルであり、Engagement開発のベースモデルではないだろうか。

開発しているのは機能ではなく、人の内側にあるポジティブな記憶だと思うと、なぜあのサービスは常に先を走り、あのサービスは停滞しているのか、それが分かるように思う。

マッシュアップをしているうちは何も進化していない。そこでのスピード感は、根本的に何も前進していないのだからスピードではない。

人の気持ちのひだに跡をつけるスピードがどうなのかを、意識したい。

Wealth Creation is all about.

(pic from tweet of @benioff)

一度は大統領候補とも噂されたコリン・パウエル元国務長官。如何にも聡明そうで、落ち着きを感じさせるけど、ちょっと茶目っ気もありそうなその顔を、湾岸戦争の頃は何度もテレビで見たもの。

そのパウエル氏がSalesforce社が開催したCloud Force Japanの会場に来場するというので、ちゃんとこの目で見ておこうと思い、割とミーハーな私は行ってこの目で確かめてきました。

Salesforce社の演出はド派手で素晴らしいものでしたが、会場に入ってきたパウエル氏は、まったく気負ったところがなく、爽やかな空気とともにやってきました。

パウエル氏をSalesforce社がわざわざ東京の会場に引っ張ってきた意図はよく分かりませんでしたが、やはり元軍人、政治家らしく、ちょっと普通のビジネスパネルとは違ったレベルの話しがそこでは展開されたように思います。生々しい仕事があって来たのに、仕事から離れた自分たちの人生、仕事の意義を考えさせられる、そこの会場にいたビジネスマンの多くが、話しを聞きながらそんな感覚を味わったのではないかと思います。

あそこで話された話題について、さまざまな感想がtwitterなどであがっていましたが、自分が一番印象に残ったのは、テクノロジーの進化などに伴い、世界のあり方がどうなっていくかについてマーク・ベニオフから問われたパウエル氏が、”wealth creation”が重要なことだと、自然な口調ではあるけれども何度も繰り返していたことです。

世界の全て。企業も、教育も、政府も、テクノロジーも、イノベーションも、人々を貧困から救い、社会の底辺を引き上げ、豊かにするために存在している、という話しでした。それこそが一番大事なミッションだ、ということを言っていました。

Wealth creationというと単に資本主義的に「富を創造」という意味に捉えそうになってしまいますが、パウエル氏が語る口調を聞いていたことで、それが全く違う意味であることを瞬時に捉えることができ、この一言を聞くためだけにでも、わざわざお台場に行った価値があったと思います。

たしかに、なぜ人はこんなに一生懸命働いているのか。

それは自分達自身がより豊かな生活を送り、社会が豊かになり、より理性的で、賢明で価値のある人生を送るために社会全体が一生懸命に働いているし、子どもを教育しているし、経営者は企業を運営しているし、納税者は政府という組織を作り出して支えているんだよ。そういうことが、スーッと心の中にイメージされました。

テクノロジーも、ただ単に便利にしている、ということではなく、何かを豊かにして、新しい文化を創造する一役を担っているからこそ、テクノロジーとなる。そう、私は解釈しました。

人間は素晴らしい。ダメなところも失敗することもあるけれども、それでも1人1人が何とか前に進もうとし、その力の集まりが結果として、ほぼ無意識ではあるけれど、社会の長期的な発展・進化を実現していく。そういう力学を生来の性質としてもっているのだということを、パウエル氏がそれを気付かせてくれたように思います。

人は、人生の中で、何度か思いもよらないタイミングで心に刻まれるような体験をしたり、言葉に出会ったりするものですが、今日の「wealth creation」という言葉は、自分にとってそんな言葉の一つになったように感じます。

感動したので、早速、パウエル氏の本を読んでみることにしました。本を通じて、じっくりその思想に触れてみたいと思います。

マイ・アメリカン・ジャーニー

2012年衆議院選挙:各政党のマニフェストを一部比較してみた

まにふぇすと

一応、今の政権党のポスターですけど、何か色調が暗い。

民主党ただでさえ危機的なのに、このポスターだと希望を感じないなあ。せっかくならもう少し明るいデザインで攻めれば良かったのに。

今回は大事な選挙なのにマスコミの報道は原発とTPPの話しばっかりで全く政策が分からないので、ちゃんと改めて政策を確認しておこうということで、マニフェストを比較してみた。

農業も原発も大事な政策ですが、長期的な日本の成長にとって本当に重要じゃないのかと個人的に思うのは税と経済政策、政府の古い権威構造だという気がするので、その辺りを比較してみたら各党の方針は結構違うようです。

・ネット選挙運動の解禁を明記:
民主/自民/みんな
・歳入庁の設置を明記
民主(2015年準備開始)/維新(時期明記なし)/みんな(時期明記なし)
・経済成長目標値を明記
みんな(年4%)/民主(年3%)/自民(年3%)/維新(年3%)
・法人税率の削減
みんな(20%)
・国会議員削減数を明記
みんな(衆参-322議席)/民主(衆参-115議席)/維新(3〜5割減)
・郵政民営化やJTなどからの経営撤退(株売却)
みんな

議員定数については、今は衆議院480、参議院242となっているので、日本維新の会の定数削減目標は、200〜350議席ぐらいの削減、ということになります。ただし、定数削減だけでなく、参議院廃止まで視野に入れているところが他党と違います。

さらに、「検討」とか「注力」とかそういうことではなく、各党が明確に「廃止」としているものに着目すると結構面白いです。政府は小さければ小さいほどいいという観点でいうとここが大事だと思うのですが、自民党の政策には廃止というキーワードは無いようでした。対象が曖昧なものは省略。

・民主:後期高齢者医療制度、政府系金融機関による中小企業融資への個人保証、連帯保証人制度
・自民:なし
・未来:核燃料再処理工場、、後期高齢者医療制度
・維新:参議院、教育委員会、人事院、地方交付税、公務員の身分保障
・みんな:独立行政法人のすべて、天下り退職金、いくつかの議員特権、減反政策、公務員の年功序列、電力の地域独占、核燃料サイクル、地方交付税、国の出先機関、、等々

など。
地方行政については自民だけ逆で、新しい交付金の創設とか予算倍増、とかが目白押し。やっぱりそこは自民党の考え方なのかなと。

民主党 http://www.dpj.or.jp/special/manifesto
自民党 http://www.your-party.jp/policy/manifest.html
日本未来の党 http://www.nippon-mirai.jp/promise/index.html
日本維新の会 http://j-ishin.jp/pdf/honebuto.pdf
みんなの党 http://www.your-party.jp/policy/manifest.html

ユーザーエンゲージメントとは?

最近、「顧客作りと情報発信」をテーマとしていろいろな会社や団体を回ったり、話しを聞く機会があるのですが、それを繰り返していると、顧客作りにたいする潜在的な欲求がいくつか見えてきました。

 

その中の1つに、「出来るだけ楽に顧客を作りたい」という欲求があります。

顧客作りを担当している担当者はみな非常に忙しいので、出来るだけ楽に顧客作りをしたいと思うのは当たり前のことだと思います。

また、「ソーシャルが出来たので顧客作りが簡単になる」という期待感も多いようです。

取り敢えずやってるというところは多いですが、方針決定をする人達が現場で苦労する人達のことをあまり理解できないまま、ソーシャルやれば何とかなると思ってしまっている例も多そうです。

 

本当にソーシャルは顧客作りを楽にしてくれるのか?

この辺りの、ソーシャルを通じた顧客形成のキーワードとして、最近海外から「ユーザーエンゲージメント」という考え方が入ってきていると思うのですが、少し分かりにくい英語で、少なくとも自分は最初聞いたときは???でした。

試しにエンゲージメントという言葉を検索してみたら、facenaviさんから、Facebookエンゲージメント調査結果、というものが発表されていました。これによれば、エンゲージメントとは、実際にアクションが取られたかどうかの指標だ、ということです。

これについてはマーケターとしては何か分かりやすい数値的指標が必要ということだと思いますが、前提となるエンゲージメントの概念についてはこれから仕事において追究していくテーマにも含まれるものなので、自分なりの解釈を書いておこうと思います。

 

現在、エンゲージメントという言葉が日本でどれくらい市民権を得ているかまだ分かりかねていますが、僕がこの言葉に始めて出会ったのは2010年でした。

そのとき担当していたリサーチ事業において、ボストンで行われた業界カンファレンスに出席したのですが、今後のマーケティングにおいてはBrand engagement, customer engagementが極めて重要であり、リサーチ事業においても、このengagementを生み出す人の気持ちの源泉を探るようなリサーチをしなければいけない、これからはそういうものが顧客に求められるという話しが強調されていたのです。既にそのテーマだけで1つのセッションコースが出来ているほどでした。

自分はそのとき、engagementという英語の言葉の意味がいまいち掴みきれなかったのですが、実は、その時は会場にいた米国の業界の人達も、その意味をはっきりと分かっている人は多くはなかったようです。

有名リサーチャーの講演会場は満席で、会場からも盛んに質問が飛び出していましたが、英語の世界でもこのengagementという言葉を明快に解説する説明は出てこず、伝えたいことや、何となくみなが共通に感じる課題意識はあるのですが誰もうまく説明できない状態でした。まだまだ言葉先行という雰囲気が濃厚に漂っていたのです。

 

なぜ、2010年のリサーチ業界でcustomer engagementという言葉が大きなテーマになっていたのか?

それはfacebookの社会インフラ化が、人々の情報消費行動を大きく変えるとともに、元々存在していたengagementという概念を具体的に実行できてしまう環境を整えつつある、という認識があったことに大きく関連していました。リサーチ業界が上客とする消費材メーカーを中心に、商品展開をする上で商品開発そのものよりもその後のブランドコミュニケーションが重要であると考えはじめていたこと、ブランドコミュニケーションの根本をマスマーケティングではなく個人毎の嗜好に心地良く響くパーソナルマーケティングに置く必要があると考え、自ら実行する事例が多く出始めていたのです。

そこで鍵となったのは、単に「顧客の嗜好に合わせる」ということに加え、「顧客が進んで選択してくれる」ための日々の顧客の生活の中に入り込んだ接点の構築であり、琴線に触れる開発ストーリー作りであり、それを「すぐ隣にいる信頼できる普通の人」が媒介してくれることでした。そして、これら一連のものを全て含む概念としてcustomer engagement、brand engagementという言葉が使われていたのだと、今振返ってみると思います。 単に「顧客嗜好を知る」ということではなく、「顧客自身も嗜好を知らない」「現状にそれほど大きな不満は無い」「嗜好に合わせた商品を提示されるだけでは実は退屈していて、行動には移らない」といった状況に対して、更に一歩踏み込んだマーケティングが必要になっているという時代背景があるように思います。

リサーチ業界において、MROC(Marketing Research Online Community)と呼ばれる調査手法が盛んに研究されるようになったのは、まさにこの一連の流れが出来る過程を経過観察する中から必要なdeep insight(心理洞察)を抽出することが必要だという認識があったからです。リサーチが、決められたテーマに沿ってリサーチするだけで終了するのではなく、その後の企業のマーケティング活動全体と直接連動することを意識した提案が出来るリサーチに変わっていくし、そうなっていかなければ業界価値そのものが失われる可能性がある、リサーチ自体も、エンドの消費者と直接コミュニケーションをしていく中でブランドと消費者の間にengagementが生まれる過程の琴線に触れるスキルを持った専門家集団になっていかなければならない、そういう危機感が満載だったのです。

気がついたらかなりリサーチの話しに寄ってしまいましたが、engagementという言葉が従来のブランドマーケティングに新しく加えた要素は何か。それはつまり「時間」なんだと解釈しています。

わかりやすい例で言えば、婚約をすると、engage ringを交換しますが、engagementというのはつまりそういうことです。長期的に相手に対してコミットするということです。

 

facebook勃興以前から盛んに言われていたバズマーケティング、と呼ばれるものと、customer engagementが生まれる過程やそのためのマーケティングが違うのはつまりそういった部分にあります。バズマーケティングというものが一過性の口コミの拡散であり、衝動的な欲求を生むことを目的にしているという意味ではテレビコマーシャルと大した変わりが無いのに対して、customer engagementという概念に基づくマーケティングでは、長くじっくりと関係を作っていき、信頼を生んでいくことを重視します。それは、もともと大事なことでブランド構築担当者であれば誰でも意識していることだと思いますが、facebookが、その関係値をより日常的で、直接的な距離感のものにしてしまいました。

 

なので、冒頭の期待感に戻ると、確かに、facebookなどは顧客にアクセスする確率を上げました。そういう意味では、楽になっています。また、一旦顧客を囲い込むと、殆どお金を使わずにコミュニケーションが可能になります。そういう意味では、金銭的にはとても楽です。特に中小企業にとってのメリットは膨大です。

しかしここで注意しなければいけないのは、顧客にアクセスできるということと、顧客との距離を縮めるというのはまるで別のことだということ。

そこでは長期的なcustomer engagementが必要で、これは多大な労力が必要です。

但し、大企業も中小企業も、ここのテーマにおいてはみな同じスタートラインに立っているどころか、中小企業のほうが社員からトップに至るまで個人個人の顔が見えやすいので、寧ろ有利に立っている部分もあります。あとは如何にその機会を活用できるか、ということになります。

 

平凡な結論ですが、結局、ソーシャルが可視化したcustomer engagementの世界には、機会の平等はあっても結果の平等はもちろん無いし、新しくやっていかなければいけないことは、お金で解決できるものではない分、却って面倒なものになっているとも言えると思います。後はそれをやりきるだけの覚悟と、本当に自社のサービスを広めたいという夢の本物ぶりが試されることになると思います。長期的に信頼を構築していくことが簡単に出来るわけがないということですね。

 

ところでこの中で具体的なツールとしてfacebookについては上げたのですが、twitterは取り上げませんでした。これが何故かについてはまたどこかでまとめてみようかなと思います。