月別アーカイブ: 2015年3月

「コミュニティ」の前提とソーシャル

インターネットが出てきてから、ありとあらゆる形の「コミュニティ」サービスが誕生してきては衰退するというサイクルを繰り返している。

なぜ衰退を繰り返すのかなと考えていたら、ふと、コミュニティ作り、の考えの潜在意識の中の前提が間違っていたような気がしたので書いておく。

「コミュニティ」という言葉はもはやそれ自体が正義のワードとなっていて、もちろんその実態はとても曖昧な言葉ではあるけれど、「コミュニティ」という言葉には独特の=それができたら面白いよね、という引きがあり、「わたしはコミュニティを作りたい」というだけで正しい方向に向かっている気をおこさせてしまうので、これからも延々とこの文脈を標榜するサービスは出てくる気がする。もちろん自分もネット業界に入ってこのかた、メディア作りにおいてはコミュニティを意識しないことは無い。

ネットを離れて考えてみると、身の回りにはありと意識せずともあらゆる形のコミュニティがあって、それらは当たり前のように勝手に押し寄せてくる。家に住めばご近所さんが出来る。学校に子どもを通わせれば学校付き合いがでる。自分は下町に住んでいるがそこにはそこには町会がある。地域活動をはじめればそこにもチームができる。これらはすべてコミュニティであってその瞬間瞬間ではなにしろ時間を使って生で向き合うものなので、結構濃い付き合いのものとなる。

にもかかわらず、コミュニティはある時期が過ぎると突然活動レベルが落ち、消えてなくなってしまうものも多い。ママさんネットワークなんかはその最たるもので、まるで一生のお付き合いになるかのようにお付き合いしているのに、子どもが卒業すればスッと消滅する。たまに理解不能になるぐらいだ。

考えてみると、つまりコミュニティというものは、そもそも人間というのは欲求の塊で、本質的には複数の人が集まれば自然と争いを起こしてしまう生き物なのであって、そうならないようにお互いにうまく生きていき、自分と家族を守るための自然発生的な知恵なのだなということに思い当たる。それは実は、コミュニティという甘い言葉とは裏腹にとても面倒な存在だということになる。だから若者は町から出ていきたくなるわけで。

それが本当の酸いも甘いも吸収した上で、互いの生き様もある程度知り尽くした中で、「まあお互いがんばってきたね」ということを自然に思えるようになるには、コミュニティの活動が3-40年ぐらいの長い年月を経てホソボソと続いていく中で熟成されてくるものなのだろうと、身の回りの下町の生活を見ていると感じる。

そう考えると、核家族化する社会の中でコミュニティに対するノスタルジーな部分がクローズアップされる傾向の強いネット上のコミュニティが常に栄枯盛衰をたどる運命なのも納得できる。つまり、そもそもネット上の向こう側の人とは仲良くする必要が本質的に全く無い。

よく、ネットで争いが起きると「荒れる」という表現が使われるが、ここで、リアルコミュニティであれば、そもそもコミュニティは生きる知恵として存在しているもので、延々と続く(つきまとう)ものなので、仮に荒れても付き合って行かざるをえない。これがネットであれば、「退会」すればおしまい。荒れることは人が付き合いをすれば避けられない性質なので仕方がないが、そこに何の目的と意味があるのか、がネットコミュニティには存在しない。

ネット上でコミュニティを作る努力をする場合、どうしてもサービス運営側は「お付き合い上手の理想の人たちのあつまりの中から集合知が生まれてみんなでそれを高め合って延々と続いて。。」みたいな絵を描きがちだ。

実際にはネットコミュニティはリアル社会ではどうしても発生する葛藤のはけ口になりがちで、「たまたま同じ場所に住んでいる人ではない、理解してくれる好きな人とだけ付き合いたい」という目的で必至に場を探している。つまりノスタルジーの中で描かれる理想のコミュニティ=リアルの付き合いの中から熟成されていくもの、とはそもそも違うものを人は探してネットのコミュニティに来ているのだという前提に立ったほうが答えに近いのではないかと思う。

そう考えると、短絡的かもしれないけど理想の密なコミュニティを作ろうとしたmixiが、もっとドライで疎な誰でもデビュー可能な社交界としてのソーシャルネットワークであるFacebookにあっけなく負けたのも理解できるし、逆に誰にたいしてもコミュニティにおける一員としての自分を見せることを強要されるような感覚がFacebook離れを生むのも理解できる。あれは、あまりうざくない程度にネットワーキングされたマイクロブログの集合体なのだ。

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日本の朝と「社畜予備軍」を生産する仕掛け

日本の会社員の朝は遅い。

ちょっと以前は大半の会社が9時出社だったと思うが、大半の人がほぼきっかり9時に出社しようとする。朝は少しでも眠っておこうということだ。

これが最近は9時15分、9時30分、10時と、どんどん遅くなっている。朝の出社時間が遅くなることで喜んでいる若い人は多いと思う。逆に今の時代に9時出社ということでは採用も苦戦しそうな状況だ。

しかしよく考えてみると、朝の出社時間が遅くなるということは、そのまま夜の退社時間の定時も遅くなるということになる。ワークアンドライフバランスが叫ばれているご時世であり、社畜、ブラック企業などという言葉が氾濫していながら、退社時間が遅くなり、ゆったりとしたプライベート時間を持てる時間を削るような仕掛けを歓迎していては、何にしても夜型になりがちな若いうちはともかく、長い目で考えれば自ら仕事とプライベートのバランスを取れない状況に追い込んでいるようなものだと考えたほうがいい。

以前アメリカで仕事をしたときには、17時にはほぼ全員が退社。まだ外が明るい18時ごろには家族や友人とレストランで食事を楽しんだりコンサートに出かけたり、といった光景が日常だった。

でもその代わり彼らの朝は早く、8時や7時に出勤してくる。家に書斎がある場合も多いので、レジャーを楽しんだ後に自宅で仕事、という人も多かった。自分で自分の時間が持てるようにコントロールしている人は多い。

一方、何をバランスしたいのかは人それぞれだと思うが、例えば19時に退社すると、自宅に着くのは20時。そこから楽しめる家族との時間はせいぜい2-3時間。子どもとの会話は殆ど持てないし、夕食を食べる時間も非常に遅くなる。結局、18時ぐらいから21時ぐらいまでの間にどれだけ仕事以外のことに集中する時間を自分次第で持てるかどうかが、クオリティオブライフの向上にはとても大事なことではないかと思う。

朝、遅く出社するとすぐにお昼の時間になるので本来もっとも生産性が良いはずの午前中に、生産量の最大値が物理的に削られている。仲間と一緒にお昼を食べに出かければ眠くなるので午後の生産性も低い=仕事が遅くなり、帰れない。

定時が何であれ、仕事が遅くまでかかってしまうことは常ではありつつ、規定の出社時間が遅いことをもって会社が提供してくれた福利厚生的なものだと考え、嬉しいと考えるのは、「私はこれから社畜になります」と言っているようなものだと、若い人は認識したほうが良いと思う。

石原莞爾と最終戦争論

石原莞爾という人が昭和の軍部にいた。満州事変を起こした。ここまでは少し歴史が好きな人だったら頭の片隅ぐらいにはあると思う。学校で教えられたことは、「満州事変で中国との戦争を引き起こした、先のよめない頭のイカレタ軍国主義者」ぐらいだと思う。

それくらいの認識はあったこの人について、なぜかふと興味を持ち、「最終戦争論」というものにたどりついた。彼が1940年ごろに講演した内容を筆記したもので、余計な脚色のない、彼自身の肉声と言える。

あまり期待をせずに読み始めたが、これが、読んでみるとバカみたいに面白い。戦後の日本の世代に対してある意味封印されてきているのは仕方ないが仕方なくない、化け物みたいな内容である。少なくとも日本の政治家はみな読んでおいて損は無い内容ではないかと思う。

なぜ面白いかといえば、彼が感覚的にとらえている世界をまたにかけた歴史の流れ、それに基づく未来予想が、ことごとく現代にあてはまっているからだ。かつ、彼がこの話しをしたのが1940年、真珠湾攻撃のちょうど1年前ぐらいであり、既に欧州では第二次大戦が始まっている(もちろん日本自身も日中戦争の真っ最中)という、激動の最中に語られたもので、当時日本の政治や軍部に対して大変大きな影響力をもっていたということ。そういった背景を考えると、当時の日本のトップクラスの秀才が何を考え、語り、どう日本の行動に影響を及ぼしたか、どこが封殺されたのか、といったことを窺うことができる。

いくつかピックアップしてみる。

「今次日支事変の中華民国は非常に奮発をして勇敢に戦っております。それでも、まだどうも真の国民皆兵にはなり得ない状況であります。長年文を尊び武を卑しんで来た漢民族の悩みは非常に深刻なものであります」

「大隊、中隊、小隊、分隊と逐次小さくなって来た指揮単位は、この次は個人になると考えるのが至当であろうと思います。、、(中略)その戦争のやり方は体の戦法即ち空中戦を中心としたものでありましょう。」

「この次の、ものすごい決戦戦争で、人類はもうとても戦争をやることはできないということになる。そこで初めて世界の人類が長くあこがれていた本当の平和に到着するのであります。」

「一番遠い太平洋を挟んで空軍による決戦の行われる時が、人類最後の一大決勝戦の時であります。即ち無着陸で世界をぐるぐる廻れるような飛行機ができる時代であります。」

「(最終決戦では)もっと徹底的な、一発あたると何万人もがペチャンコにやられるところの、私どもには想像もされないような大威力のものができねばなりません。

「目下、日本と支那は東洋では未だかつてなかった大戦争を継続しております。しかしこの戦争も結局は日支両国が本当に提携するための悩みなのです」

「アジアの西部地方に起った人類の文明が東西両方に分かれて進み、数千年後に太平洋という世界最大の海を境にして今、顔を合わせたのです。」

「統制主義は余りに窮屈で過度の緊張を要求し、安全弁を欠く結果となる。。(中略)統制主義の時代は、決して永く継続すべきものではないと確信する。」

「最終戦争を可能にする文明の飛躍的進歩は、半面に於て生活資材の充足を来たし、次第に今日のような経済至上の時代が解消するであろう」

「人類の前史は将に終わろうとしていることは確実であり、(中略)今後数十年の間は人類の歴史が根本的に変化するところの最も重大な時期であります」

「人類が経済の束縛からまぬがれ得るに従って、その最大関心は再び精神的方面に向けられ、戦争も利害の争いから主義の争いに変化する、、(中略)即ち最終戦争時代は、戦争の最大原因が既に主義となる時代に入りつつあるべきはずである。」

「発明奨励の方法は官僚的では絶対にいけない。よろしく成金を動員すべきである。独断で思い切った大金を投げ出し得るものでなければ、発明の奨励はできない」

航空機の時代が来ていること、最終兵器≒原爆のようなものの登場が迫っていること、究極の戦争のあとには戦いに明け暮れていた歴史が変わること、経済発展がおき、利害を超えた主義の争いが勃発すること、発明は奨励されるべきで、発明の促進は民間の投資家によって行われるべきであること。これらの思想に石原莞爾が到達したのは1940年よりも大分以前のことのようで、その後の日本と世界の歩みを考えれば、2015年の今にまで通じる的確な予想だというしかない。

一方、明晰であるようで、あくまでも「天皇」が未来の世界の諸国民の中心にあると考え、そこに対する疑問がないこと、中国を讃えつつ今の「犠牲」は仕方がないものだと捉えていること、などは、当時の視野の限界なのか、それとも当時の環境にいればこう判断することが本当の大局だと考えても仕方のないものなのかは、現代に生きる自分達にはなかなか判断のつかないことだ。

そして、大きな戦略を描きながら、まるで曲芸のようにその激しい戦いを生き抜くための戦略を、国家戦略として描くということ自体が無理があるということに気づかないところが、満州事変を起こした彼の姿に透けて見える。

 

 

自民党憲法改正草案(平成24年4月27日)の要点を整理してみた

池上彰さんの「池上彰の憲法入門」を読んで、自民党の憲法改正案を知っておかなければと思い、早速、改正案を読んで、自分なりに気になった点を整理してみた。

自民党は今後も政権を長く務めるだろうし、彼らが目指す世界は限りなくこの草案の中に盛り込まれているはずなので、読んだことの無い人も是非読んでおいたほうがいいと思う。

自民党憲法改正草案(平成24.4.27)

・前文:伝統や歴史があること、それらへの誇りや尊重と継承が憲法の目的として新たに強調される。「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないように」というくだりは削除されている。

・第1条:天皇は単なる象徴ではなく、日本の「元首」だと明記される

・第3条:国旗と国歌が明確になり、それへの「尊重」が国民に求められる

・第9条の1、2項:自衛権の行使は認められる。

・第9条の2:自衛隊は国防軍に変わる。

・第9条の2、5項:国防軍は独自の「裁判所」を持つ。

・第9条の3:領土の保全は国の義務となる

・第12条:自由と権利には公益に反しない「責任と義務が伴う」ことを自覚した行動が国民に求められる

・第21条の2:「公益」を害する活動、結社は表現の自由の対象外となり、禁止される

・第24条:「家族は互いに助け合うこと」が国民の責務になる

・第25条の2:国が「良好な環境」を提供するために「国民が協力すること」が義務になる

・第25条の3:在外国民の保護に努めることは国の義務になる

・第56条:議員の1/3の出席で議決ができる(↔過半数)

・第63条:大臣は議会から答弁を求められても欠席して良い場合がある

・第83条の2:「健全」な財政を維持することは国の責務として明記される。

・第92条の2:地方自治の公平な負担は住民の「義務」になる

・第92条の3:国と地方自治体は「協力しあうこと」が求められる

・第99条:「緊急事態」が宣言されたときには国民は国の指示に従うことが必要になる

・第100条:憲法改正は両議院の「過半数」の賛成で国民投票にかけることができ、「投票者の過半数」の賛成で成立する

・第102条:「憲法を尊重」することが国民の義務になる

良いか悪いかは実際の運用に依ることになるが、全体的に伝統的と言われる価値観の尊重や、国が進めることへの協力を地方や国民に対して求める項目が増えている。

また、戦争を引き起こした当事者だったのでその反省の中から憲法を作った、という考え方は、消えてしまったように見えなくもない。

追加されたり修正された理由がよく分からない条項もいくつかある。突然現れた必要性の低そうな条文で、背後にある各省の思惑を感じるものもある。

中身についてはこれを機に政治の流れも見ながら考えてみたいと思う。

ただ、自民党がいろいろな人の意見を取りまとる困難な作業を完遂し、具体的な改正案を作ったこと自体は、政治的リスクを踏まえてもやるという明確な意図を感じるし、それが政治だと思うので、素晴らしいことだと思う。