月別アーカイブ: 2012年6月

30年後のFacebookと社会

すっかり当たり前なインターフェースとなったFacebookのタイムライン。

世界中の何億という人の自分史をいま、せっせと記録し始めています。

自分史というコンセプトまでいかないまでも、Twitterもまた、立派な自分史となっています。そう主張していないだけで。

特にIT業界の人にとって、もうFacebook/Twitterはあらゆる意味で欠かせない存在となり、まるでもう何年もそれを中心に世界が動いてきたかのような感覚すら生まれているように思いますが、実際にはアメリカはともかく、日本においてはここ2年ぐらいで急成長したもので、それ以前は殆ど話題にもならなかった物です。アメリカですら、ここ5年ぐらいでSNSの勝者として認知され、いつの間にかそれが、ソーシャルグラフなどと呼ばれ、気付いたら自分史になっていたということなので、Facebookという世界が形作り始めた社会が何なのか、そこに住む住人ですらまだよくは分からないという、出来立てのほやほやな世界なのだと捉えてもいいのかなと思います。

FacebookについてはIPOで一旦の段階に行き着いたような感覚もありますが、このサービスが目指しているのが本気で「自分史」になることなのだとしたら、実際にはむしろ、サービスとしてはせいぜいまだ2-3才の赤ん坊でしかないわけで、現在30代の人間の一生を途中から綴っているとしても、少なくともこれから更に30年から40年は続いていかなければ、人1人の一代の記録すら綴れずに終わってしまうことになる。ザッカーバーグ氏はまだ若いので、少なくとも自分の一生ぐらいは本気でFacebookに綴らせるつもりでしょう。となると、僕たち一般ユーザーも、いまは自分一人が日々向き合えばいい、という程度の感覚でこの便利なサービスを使い倒していますが、実は、そこでアウトプットされたことは、30年後、40年後にも残っていることがリアルに想定されるし、下手すると子供や孫の世代でも残っていて、何かのきっかけで読み継がれて行く可能性があるということになります。

ザッカーバーグ氏を始め、頭のいい人達はこんな可能性にはとっくに気付いていることと思いますし、Facebookではきっとこのような議論は何度も交わされていることと思いますが、自分は最近、それが人間の社会概念に根本的な革命をもたらす可能性があり、一方では大変な危険を生み出す可能性があるということをようやく感じています。それは、最近起きている政治運動や社会運動のような次元のものではないです。それらは、Facebookが加速させただけであって、もともとあった病巣を社会が自分で正しただけだと思います。自分がもっと大きな変革あるいは脅威ではないかと最近思い始めたのは、①家族概念の崩壊、②Identity Crisis、それにもう1つ加えれば、③死と歴史概念の変化、の3つです。

 

1. 家族概念の崩壊

いま僕たちがFacebookやTwitterに綴っていることは、それらのサービスが存続する限り、30年たっても40年経っても誰かの目に触れ続けます。

人間は程度の差はあっても誰でも年とともに精神的に成長していく生き物なので、当然、今僕らが投稿していることは現時点での精神年齢を表しています。当然、それらの投稿の中には、20年後に見れば赤面してしまうようなものも含まれています。

同じCGM系プラットフォームでも、メルマガやブログではある程度の知的考察が求められるのでその投稿内容の精神的な品質には一定の抑制が働きますが、Facebookやtwitterはどうか? バースト的な投稿が気軽な投稿とそれによるストレス発散を可能にする一方で、その内容についてはあまり考えずに投稿することが当然ながら多いです。これが、本人だけが後日知ることになるものであればいいのですが、問題は、10年度20年後に、自分の子供がそれをふと目にする可能性があるということです。

これを読んでいるあなたが、少しでも「親がどう使っているか知りたい」と思ったことがあったとしたら、あなたの子供も当然そう思うはず。その時、何が起きるのか?

これはとても興味深い問題だな、と思います。

人間社会は程度の差こそあれ、「自分が知らない過去を知っている人」に対する尊敬と権威によって形成されてきています。

また、そういう権威の良い面だけを引っ張りだして神格化することによって、自分自身の目標を設定し、精神状態を維持する、という側面もあると思います。

家庭によっては親と子の間に友達のような関係を作っている家庭も最近は沢山あると思いますが、それでもやはり、子供にとって親はいつまでも感謝すべき立派な親だし、そうあってもらいたいと、深層心理で少なからず思っているものだと思います。

FacebookやTwitterは、この、「見えないことによる権威」を消滅させ、良い面も悪い面もむき出しに露出してしまう、それも世代間でむき出しにするという、新しい状態を世の中に作り出しています。

これは、Facebookの主張するような「何でもオープンにすることが良い世の中につながる」ということで簡単に片付けていい問題ではない気がします。

良い側面を捉えれば、親にもいろんな面があるんだと子供が理解し、より良い家庭が築ける可能性があります。が、一方で、子供に対して理屈ではなく何かを理解させなければいけないようなシチュエーションで、「親の権威」というものがこれまでのようには使えなくなる可能性があります。現状接している親の「今の真実」を知ることはこれまでもありえたことですが、親の「過去の真実」を生々しく知ることは、親の権威を圧倒的に低下させる可能性があるのに、「今」を行きている僕たちは、そんな将来のことまで予想して今を生きるわけにはいかないので、そこには大きなリスクが存在します。

おそらく、悪いことになるとしたら、その前に人間社会もFacebook自身も自然に変わっていくこととは思いますが、放っておけば、10年20年たったときに、こういう親子の関係の崩壊(あるいは進化)が発生する可能性があり、それは人間が何千年も前提にしてきたものが変わるということを意味するので、これはFacebookやTwitterの黎明期を共に過ごしている僕らも、そろそろ考えておく必要があるように思います。

 

2. Identity Crisis

これは一言でいうと、多重人格危機ということです。

FacebookやTwitterは今まで目に見えなかった社会構造の中で上位に位置する人達の活動を、かなり晒すようになっており、その結果、孫さんの「やりましょう!」に代表されるような、誰でもそこに対して気軽にアプローチしていけるというルートを作ったと同時に、人1人が行使できる影響力には圧倒的な格差があることをまざまざと見せつけています。

さらに、ソーシャル上に投稿される1つ1つの投稿がその人が「生きている」ということ、更には如何に自分が「充実した人生を生きているか」「知的体験を重ねているか」ということの証しになるような感覚を多くの人に与え始めているのは疑いのない事実だと感じています。

特に、アメリカのような人1人1人が主張し合いながら生きている社会に比べると、日本のようなもともと村社会的な絆を大事にしてきたコミュニティでは、こういったプレッシャー的な要素が大きくなっているように感じています。

一時代前なら「日経読もうよ」と言われていたのが、今なら「Facebook読もうよ」になっている、といった感じに近いかと思います。

例えば、会社を作ると法人格ができ、トップの意思に関わらず法人としての人格が成長し始めるのと同様に、この意識があまり過剰に進みすぎると、Facebook/twitter上の人格に現実の人が引っ張られ始めることは普通に起きてくると思いますし、今でも既にそういう状況は大なり小なり起きているはずです。ソーシャルメディアを熟知していてそれに対処できるように最初から使っている人はいいですが、そうでない人は「実際はそうでもないのにあたかも充実しているような体験を公開していくプレッシャー」に耐えきれなくなって、精神的にも追いつめられる可能性があると僕は感じています。

今から10年後も、20年後も、50才60才になっても、せっせとパソコンに向かってFacebookを更新しつづけている自分を想像すると、自分はぞっとしますが、物理的に今の世代がこのまま年を経っていく以上、そういうことは普通に起きる可能性があります。

これはただの想像ですが、20年後の病院の精神科や心の相談所には、「オンライン精神病科」という科ができて、ソーシャルサービスの重圧にやられて多重人格障害になった人を専門に治療しているのではないかと思います。きっと、そういうことになる前に物理的に人をネット環境から隔離してくれる予防キャンプみたいなものも盛況なんじゃないでしょうか。

 

3. 死と歴史概念の変化

これはあまり危機的なものなのかどうかは分からないですが、取り敢えず絶対的に発生することとしては、人が生きていた証しが、オンライン上に半永久的に残り続けるということで、それ自体がお墓になります。

人は、家族や知人が死ぬと、お墓にお参りに生き、そこで故人を偲ぶ、ということをしますが、20年後には、オンライン上でその人のタイムラインを見ながら故人を偲ぶ、ということが一般事象として起きてくると思います。

また、家族概念の変化にも関係がありますが、これまでは、先祖や故人が作ってきた歴史を、誰か別の人が記録したりすることで今までは語り継がれてきたし、それを調査するのが歴史学者の仕事でした。が、ソーシャル上に大量の自分史が保存されている状況がうまれると、「その人が自ら書いた記録」がそのまま歴史になります。

語り伝え、という形ではなくて、リアルにその人が何を考えていたのか?というのが本人の口を通じて死んだ後も語られる、ということになったとき、それは死生観や宗教観にどんな影響を及ぼすんでしょう。自分にもまだよく分からないけれど、でも、死ぬときに「何も残せない」みたいな想いで死ぬ人は減るのかもしれませんね。そうなればいいことですが。でも、「私は死にました」みたいな記録が残り、それに対して回りの人が「(人生を全うできて)いいね!」みたいなことになるのかな、と思うとちょっとそれはそれで個人的には面白いです。

 

実際にはどうなるか分からないですが、いままでのソーシャルサービスの歴史はほんの導入部分で、これから僕らが想像できないぐらい長い時間こういうサービスが残り、増えていくことになると思うので、それが何を意味するかは、IT業界に身をおいている自分としては、後から後悔しないよう、それなりに日々の思考に入れておかなければと思っています。

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