https://www.flickr.com/photos/anieto2k/8634376620/in/photolist-e9Zrmq-4EAmVd-brNq77-iKrUr5-patm5D-5LKBpf-bPPh6x-fSYwoc-qmcnBs-8Nt5f4-6vX69q-kbyqPY-nGi4Cd-9n7xrr-dbnV1d-747ULe-74HVUQ-fMC5eX-f84BVj-eGy6j8-iPhQ4u-txAyM-fMbmnH-efrd6z-mHxaVP-cMEufy-bsSJR9-ds6D9d-2usKMk-r41Ava-oDPZpk-6Ud1zx-pZC6uT-2TVtxq-jJkW39-abrPoa-CLcDoL-qAi9Cu-97Mmsf-4sKbyG-aqmEtG-ejYti5-567aGS-6bPXAr-oCEroe-6msdaY-ejSJa8-aSEQUa-bB82ra-cEn6Qd

情報流通の逆転とサイクルマーケティング

例えば美味しいパン屋はいくらでもある。そんな中である店を経営している人と知り合いになり、その気持ちを知って共感する。そうするともう他で買う気はなくなる。それがエンゲージされた状態。

情報の誕生、成長、流通、出口まで、時系列に揃い、その一つ一つのプロセスが全て信頼する人の手を介して伝えられることで初めて完璧なメッセージになる。情報は、6人を介すると世界中の全員に届くということが実験で証明されていることを考えれば、最初の1人に正しく相対することのレバレッジ効果は機械的に配信される企業のマス広告を遥かに上回る。それは商品開発の段階、種を見つけるときのコミュニケーションからスタートしている。

コンテンツは意図せず広告になり、広告フォーマットはコンテンツ化する。純粋コンテンツと広告の垣根は無くなり続ける。情報の流通は、完全にマスからピン対ピンになリ続ける。流通した情報の質は、実体験だけでなくその拡散によって検証され続ける。

マス情報の流通の縮小と反比例して広告倫理的に重要になるのは発信者のアイデンティティが個人レベルで明らかであって、誰のクレジットで発信されているのかということではないだろうか。

あらゆるハードがオンライン上のエレメントとなり、AIがコンテンツすら自在に作る世の中は、好まなくても確実に実現するだろう。情報が誰の手を経てどう流れてきたかもトレースできること。これによって情報の信頼性を担保すること。これがオンライン社会で大きなテーマになるかもしれない。

チームラボ・猪子氏が語る、「やりたいこと」を見つけるたったひとつの方法

やりたいことがみつからなくてもいい。

「やりたいことなんか見つからないですよ。見つからない、見つからない! 時代とともに必要なスキルってすごい勢いで変わっていくわけです。新しい時代で必要なスキルを学校が若い子に教育してくれたら、古い人たちはその新しいスキルを持ってないから(若い子が)必要がられるんですよ。

そうすると適当な感じでも「やってやって」みたいな感じで仕事がいっぱい貰えるし、就職も受かるし。そのうちに社会に必要とされているから何か嬉しくなってきて、もう少しやろうかっていう感じで「この仕事もいいかな」と思ってくるっていう。何が言いたいかわからなくなってきたけど。」(logmiより

古い記事だが猪子さん、いいことを言うなと思う。

ずっと、自分はやりたいことがたくさんあるし、やれることもたくさんあると思ってきた。でも、いくつかサービス立ち上げたり、起業してみたり。でも、段々と自信がついてきたら、いつの間にかそれは単なるエゴになっていた。

やりたいことをやれば、はキレイ事。

やりたいことが明確な人はそれだけで幸せなこと。分かっていてもやらないなら何か理由があるか、実はやる気がない。

普通は突き詰めれば突き詰めるほど何も見つからなくて悶々とするわけで。だからこそ、無駄に理由を探して時間を過ごすよりも、行動して、身の回りに波を作り出してみたほうがいい。

それでも、そんなことは分かっていても、時には時間が必要なこともある。分かっていても、理由を探したくなるからこそ人間なのであって責めることはできないなと思う。

でも、生きがいというものは、人との関わりの中からしか生まれてこないものだし、自分が切り拓いたように見える道も、全て、両親を含め、誰かとの関わりの中で自然と背中を押され、自分が役に立てたという感覚があり、そういった繰り返しの中で無意識に創りだされ、歩みだしていったものだということは言えると思う。

結局のところ、人は、テロリストでさえ、誰かの役に立たないと感じることはできない生き物で、何かを成し遂げたい、という欲望は全て最終的にそこに回帰している。それって本当に人間の根幹にあるもので、AI時代、ロボット時代でもロボットと人間の大事な差になるのかもしれない。

参照元:http://logmi.jp/9198(チームラボ・猪子氏が語る、「やりたいこと」を見つけるたったひとつの方法)

photo by Yoozigen on Flicker (https://flic.kr/p/c19orm)

山登りの記憶。

高校時代は、自分は山岳部だった。1年の夏に行った北アルプス遠征の苦しさ、達成感は今でも記憶に残っている。

キャンプ地の朝は早い。朝4時には起きる。夕暮れが来る前に次の目的地に着かなければいけないからだ。

まだ暗いうちに火を起こし、みなが無言で手早く朝食を済ませる。

早朝5時にキャンプ地を出発し、30kgの荷物を担いで10時間の行程の一歩目を踏み出す。荷物は肩にずっしりとぶら下がり、気分の高揚などは一切ない。

ギリギリと肩に食い込むリュックの肩掛けだけに神経が集中し、あいつのリュックのほうが軽いのではないかとくだらないことに八つ当たりしたい気分になる。目指すべき山は遥か彼方に見える。一体あんな遠いところに辿りつけるのだろうかと信じがたい気持ちになり、そんなバカげた山行を計画した人間は誰なんだと先輩を罵りたくなる。

元気な人間は最初は「おぉ」とか「やっほー」などと無駄に体力を消耗する遊びをし、多少のジョークで笑いも起きる。しかしすぐに全員が無口になる。1時間ほどアップダウンを繰り返す。見てはいけないと思いながら顔を上げてしまうと、稜線の彼方に改めてその山の頂が見える。分かってはいても、まったく近づいていない気がして絶望的な気持ちになる。その瞬間、体から一気に体力が抜ける。

そんなときは、下を見るか、横を見るしかない。

歩きながら横を見れば木立は着実に自分の前から後へと過ぎていく。自分が前に向かって進んでいることが分かる。ふと無意識の状態になり、体力の消耗をつかの間忘れる。アリなら一生辿りつけないような距離をすでに歩んでいると、無意味な比較で自分を鼓舞する。無心の状態は長くは続かないが、できるだけ考えることをやめ、前の人間の靴が前後する様子だけに視点を集中し、足を進める。

更に2-3時間も歩けば、いまだ遠方にあることに変わりはないものの、明らかに出発時とは違う角度と大きさで山の頂が見える。ゴールに多少近づいたことを認識できる。

これを繰りかえしているうち、無口な一行は、その山の麓にたどり着く。あとこの登りを登りきれば山頂だ!という先生の声が聞こえ、誰もが小さな歓声を上げる。まだ多少体力の残っている者は、「頑張れ、よし行くぞ!」などと周囲を鼓舞する。この瞬間、ボロボロだった自分の体に突然力がみなぎり、ガンガン登り出す。ほどなくキャンプ地に到着し、みなが荷物を地面に放り出す。

「やったぞー!!」

どんな状況であっても一歩ずつ進んでいれば、かならず到達する。今歩いている道の次の一歩を踏み外さずに確実に踏み、大きな方角を見誤らければ。

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レインボーマーク

米国で同姓結婚が合法化されたことを受け、巷にレインボーマークがあふれている。2年ほど前に、NYCでBanana RepublicのLGBT向けのCMを見て衝撃を受けたことを思い出す。この2-3年で世界は一気に変わった。

公序良俗、犯罪につながらない限り、嗜好が差別の原因になってはならない。だからこの流れは人権保護という観点で必然だろうと思う。ただし、結婚が合法になったからといって人の意識がすぐ変わるわけではない。

一方で、これによって、子どもと親の関係は今後どうなっていくのか、家庭とは何なのか?、その辺はまだどう考えていいのか正直よく分からない。だから一概に「良いこと」とは括れない自分がいる。社会の仕組み、自分たち自身も、本当に自分たちが主張している概念の進化に追いついているのだろうか?むしろこれから考えていくべきことが沢山あるように感じる。ここは新しい人類の試みのスタートラインに過ぎず、それをどう社会として本当の意味での意識改革に結びつけていくかはこれからの話し。

いずれにしてもLGBTと呼ばれてきた人たちの存在がますます大きくなり、それが社会全体の通念となり、普通になってきているし、多くの人がそれを歓迎しているという事実がある。この人たちの人口はどんどん増えているようだし、それを考えると、人類は豊かになった結果、子孫を残す、という生物の根源的な欲求と義務から解放されはじめていて、ますます精神的な存在になっているんだろうと思う。これは地球上に生物というものが誕生して以来の進化だし、もしかするとトランスジェンダー型の新しい世代の人類が誕生しつつあるのかもしれない。

ただ、こういう流れはいつも欧米から始まる。抑圧に対する権利。理想像を性急に判断して性急な変化を求める。たまに理解しがたい思想がある。

欧米の人権思想の根本にあるのは、キリスト教が課してきた義務的な人生観、性に対する抑圧、家族価値に対する厳しい規定にある気がしている。彼らは、キリスト教と教会の束縛から逃れるために様々な社会的仕組みを構築して、政教分離して、自由に息が吸える空間を確保してきた。

宗教から逃れるために多くの人が苦しみ、暴力に走り、陰湿で倒錯的な性癖に走ったのが欧米社会。それと比較すれば、日本をはじめとしてアジアはもっとおおらかで、自然な価値観の中で人生や社会を築いてきた歴史があると僕は思っている。いたずらに欧米の価値観を拾うことはとても危険だ。

アジアはアジアのスピードで実感して、自然と感じることだけを拾えばいいと思う。

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Stop fighting for the fight. Stop exporting of the weapons.

Yesterday was a national holiday of Japan celebrating the promulgation of our constitution in 1947.

No single word of the constitution has been changed or modified since then. It is a big body of the spirit of Japan where law prevails. No matter how the foreigners imagine about Japan and its past, Japan has declared its eternal abandonment of its right to fight with other countries by the armed force, and all the post-war generations has been taught the constitution is the country’s pride. The first draft was created by a team of US officers from GHQ, but its spirit is shared and accepted among Japanese as our standard language.

In 1950, Korean war broke out and the same US-lead GHQ ordered Japanese government to re-build its army. It was the beginning of the hard time for the Japanese government as the constitution was kept unchanged. While it clearly says we do not rely on any kind of military power, the reality implies it is a childish dream.

The existence of the Japanese military (or self-defence force,,) has been a good resource for China and Korea to show conflicts that they produce by themselves and unite their nations against the “enemy”. They keep sending hostile words to Japan while they keep receiving ODAs and other forms of financial assistances from Japan.

Even in a domestic political scene, the self-defence force has been a super-nice political agenda for the left-wing parties and the debate about its lawfulness has stopped our congress many times.

Now, our PM is trying to change the the country’s direction more clearly towards the so called “standard” nations. He thinks Japan should coop more positively with the global society for the peace which may include a military effort. I can understand his concern, and share a view that Japan must be a “positive” player for driving a peace.

However, here is my big question: “why don’t we Japan put more efforts on terminating the weapon exporting?”

We have to acknowledge the fact that almost every weapon exported to the developing world are manufactured by the permanent members of the UN Security Council. They are pretending they are fighting for the peace, it could be true, but why don’t they stop exporting the weapons? It will cease fires automatically as those weapon-importing countries usually have no weapon production facilities or have no ability to maintain it.

See this chart > US and Russia remain world’s biggest arms exporters – study

Japan must watch carefully on what is going on underneath. We are not fighting for a benefit of any specific country. We must fight for the better future where no war can happen as it is said in our constitution. It is how we can show our respect to the soldiers who lost their lives during WW2.

なぜ地域活動をするのか

地域活動をする理由

「お金にもならない地域活動の、何が楽しいんですか?」

ここのところ短い間に、どういうわけか何度か同じ質問を投げられています。

旅行をしたり出張したりして他の土地にいくと、その土地に対する印象というものは面白いほどに先入観や、最初に出会った人の印象によって左右されることに気づきます。

「あぁ楽しそうだな」「何が待っているだろう」なんて思いながら行けば、どんな土地や景色の中からも、良い部分や新しい価値観、親切で優しい人たちを探しだしてきてはそれを楽しんでそこに同化していこうとする自分がいるし、「あぁあそこ行きたくないな」「何もなさそうな町だな」と思えば、何を見ても新鮮に見えないし、住んでいる人も無機質な他人としか捉えず、土地の慣習だってくだらない因習としか捉えられず、そこに流れる空気から遮断された自分がいるものです。

自分の親もそうでした。関西出身の親は東京に住みたいと思っていたのに、実際に転勤で東京に来たときに住んだのは浦安でした。そうなると、浦安の良いところを楽しもうという姿勢にはならず、「なぜ千葉県なんかに住まないといけないのか。早く都内に引っ越したいものだ」という思いをつねに胸にかかえながら日々の生活を送ることになり、どうしたっていいことにはなりません。

自分は今は荒川区に住んでいるけど、ここも同じ。「荒川区みたいな柄の悪い下町に住んでいるけど、できれば台東区や文京区に引っ越したい」。そう思いながら心の中で「仮住まい」を続けている人の話しはよく聞きました。だいたい、もともとこの土地に住んでいる人がそもそもそうだったりします。文京区あたりに引っ越すようなことになれば、「凄いねぇ、出世したねぇ」なんていう羨望の眼差しで捉えがちです。

まったく、土地にはなんの罪もないのに可哀想な話しです。こうやって、足元にころがっている良い部分や、古い伝統、景観が、肝心のそこに住む人たちの無関心のために壊れていくのです。たくさんの人がふと気づいたころには、人の温もりも感じられない、すっかり変わってしまった無計画な町の残滓だけが残っていることになりかねません。私の実家がある神戸市ポートアイランドがそうなので、これは事実です。

もちろん、住んでみた結果、どうしてもその土地に合わないという人もいますしそれは否定しないですが、最初から「いつか離れたい場所」と思う人ばかりが住んでいるような土地では、10年20年たったころには間違いなく荒廃します。

別に子どものためにやっているわけでもないけれど、自分たちの子どもが大人になったときに、育ってきた土地が、ずっと住んでいたいなぁと思えるような、活気ある、楽しい良い町になっているほうがいいですよね。

だから、自分が情報発信という地域活動をはじめた理由は簡単なのです。

「自分が住んでいる町を、できるだけたくさんの他の人にも好きな町になってもらいたいから」

やり方はいろいろあると思いますが、根本的にそういうことなのです。その中で出来ることをやっているということであって、だからまあ自分や家族のためということです。

まぁ、活動をしてみると、地元というだけで仕事では会えないような人たちとのつながりが生まれて、活動を通じた知りあいのお店も増えて、町なかでばったり会っては「こんにちは!」なんて挨拶できるご近所さんができたりして、実際はそういうことが楽しかったりするんですが。別にそういうことっていうのは、わざわざ他の土地に探しにいく必要は無いわけです。

pablo

「コミュニティ」の前提とソーシャル

インターネットが出てきてから、ありとあらゆる形の「コミュニティ」サービスが誕生してきては衰退するというサイクルを繰り返している。

なぜ衰退を繰り返すのかなと考えていたら、ふと、コミュニティ作り、の考えの潜在意識の中の前提が間違っていたような気がしたので書いておく。

「コミュニティ」という言葉はもはやそれ自体が正義のワードとなっていて、もちろんその実態はとても曖昧な言葉ではあるけれど、「コミュニティ」という言葉には独特の=それができたら面白いよね、という引きがあり、「わたしはコミュニティを作りたい」というだけで正しい方向に向かっている気をおこさせてしまうので、これからも延々とこの文脈を標榜するサービスは出てくる気がする。もちろん自分もネット業界に入ってこのかた、メディア作りにおいてはコミュニティを意識しないことは無い。

ネットを離れて考えてみると、身の回りにはありと意識せずともあらゆる形のコミュニティがあって、それらは当たり前のように勝手に押し寄せてくる。家に住めばご近所さんが出来る。学校に子どもを通わせれば学校付き合いがでる。自分は下町に住んでいるがそこにはそこには町会がある。地域活動をはじめればそこにもチームができる。これらはすべてコミュニティであってその瞬間瞬間ではなにしろ時間を使って生で向き合うものなので、結構濃い付き合いのものとなる。

にもかかわらず、コミュニティはある時期が過ぎると突然活動レベルが落ち、消えてなくなってしまうものも多い。ママさんネットワークなんかはその最たるもので、まるで一生のお付き合いになるかのようにお付き合いしているのに、子どもが卒業すればスッと消滅する。たまに理解不能になるぐらいだ。

考えてみると、つまりコミュニティというものは、そもそも人間というのは欲求の塊で、本質的には複数の人が集まれば自然と争いを起こしてしまう生き物なのであって、そうならないようにお互いにうまく生きていき、自分と家族を守るための自然発生的な知恵なのだなということに思い当たる。それは実は、コミュニティという甘い言葉とは裏腹にとても面倒な存在だということになる。だから若者は町から出ていきたくなるわけで。

それが本当の酸いも甘いも吸収した上で、互いの生き様もある程度知り尽くした中で、「まあお互いがんばってきたね」ということを自然に思えるようになるには、コミュニティの活動が3-40年ぐらいの長い年月を経てホソボソと続いていく中で熟成されてくるものなのだろうと、身の回りの下町の生活を見ていると感じる。

そう考えると、核家族化する社会の中でコミュニティに対するノスタルジーな部分がクローズアップされる傾向の強いネット上のコミュニティが常に栄枯盛衰をたどる運命なのも納得できる。つまり、そもそもネット上の向こう側の人とは仲良くする必要が本質的に全く無い。

よく、ネットで争いが起きると「荒れる」という表現が使われるが、ここで、リアルコミュニティであれば、そもそもコミュニティは生きる知恵として存在しているもので、延々と続く(つきまとう)ものなので、仮に荒れても付き合って行かざるをえない。これがネットであれば、「退会」すればおしまい。荒れることは人が付き合いをすれば避けられない性質なので仕方がないが、そこに何の目的と意味があるのか、がネットコミュニティには存在しない。

ネット上でコミュニティを作る努力をする場合、どうしてもサービス運営側は「お付き合い上手の理想の人たちのあつまりの中から集合知が生まれてみんなでそれを高め合って延々と続いて。。」みたいな絵を描きがちだ。

実際にはネットコミュニティはリアル社会ではどうしても発生する葛藤のはけ口になりがちで、「たまたま同じ場所に住んでいる人ではない、理解してくれる好きな人とだけ付き合いたい」という目的で必至に場を探している。つまりノスタルジーの中で描かれる理想のコミュニティ=リアルの付き合いの中から熟成されていくもの、とはそもそも違うものを人は探してネットのコミュニティに来ているのだという前提に立ったほうが答えに近いのではないかと思う。

そう考えると、短絡的かもしれないけど理想の密なコミュニティを作ろうとしたmixiが、もっとドライで疎な誰でもデビュー可能な社交界としてのソーシャルネットワークであるFacebookにあっけなく負けたのも理解できるし、逆に誰にたいしてもコミュニティにおける一員としての自分を見せることを強要されるような感覚がFacebook離れを生むのも理解できる。あれは、あまりうざくない程度にネットワーキングされたマイクロブログの集合体なのだ。