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尊敬される文化を持つということ

ドイツが欧州を救っている、というFTの広告。


ドイツが欧州を救っている、というFTの広告。

久しぶりに海外に出ていました。 そこで改めて感じたことは、
日本という国へのリスペクト。 海外に出て、日本人だと分かると、比較的丁寧な対応をされることがあります。
勘違いかもしれませんが、こちらをGentlemanとして扱ってくれるのです。つまり、日本人は文化人だ、という認識をされているということです。
日本人に会えた、ということに対して”今日はファンタスティックな日だ”という反応を示す人さえいます。

これまであまり意識しませんでしたが、今回は一人出張だったこともあり、頼りになるものも友人もいない中、日本へのリスペクトを背景に話しかけてくれる人が何人も現れたことは驚きでもあり、救いでもありました。

その中には勿論、勘違いもあるし、日本を必要以上に美化している人たちもいます。
が、そういう日本という国の印象を形作ってきた先人、現代においてはアニメや映画のクリエイターにも、本当に自分たちは感謝しなければいけない。
そう思いました。

同じアジアの国、アジアに限らず世界中の国で、その国の文化や習慣に対して幅広くリスペクトを示される国というのがどれだけあるのかと考えて見ると、それほど無いのではないかと思います。
基本的に日本人は真面目で、よく働くし、奥ゆかしく、礼儀正しい、という印象をもたれています。そして、そのことは非常にセクシーだと感じる外国人がそれなりにいます。

それは部分的には事実ではないかもしれないけど、そういう印象をもたれていることは、海外で何かをする際には何かとアドバンテージに働くことが多いのは間違いないと思います。
江戸時代、日本は鎖国を続け、それによって国が弱体化する可能性があったにも関わらず、規律と責任感を重視する武士によるある種の共和制的な統治体制が、精神的な部分での弱体化を防ぎ、寧ろ世界に通用する独自の道徳観と正義感を生み出したことは本当に素晴らしい。

今やサムライなどと言われてもこちらは時代錯誤を感じることもあるし、寧ろ、世界の中には日本人よりもサムライと呼ぶのにふさわしい人たちも沢山いるわけですが、世界の人は日本人というよりも、サムライの哲学とその生き方に憧れている。そのことは心のどこかにとどめておき、日本人としてはサムライの生き方に恥じないように背筋を正して世界で行動すれば、必ず世界で通用すると感じます。

よく、海外に出ると、Which country do you like?、などと聞かれます。

日本人は、自分たちの国のことは良く知っているので、憧れの国であるアメリカやイギリス、フランス、最近であればアジアの国を答える人も多いのではないかと思います。
が、僕は、日本も、世界のどこにも負けない、素晴らしい国だと思います。というよりも、はっきり言えばBest countryなんではないでしょうか。
だから最近では自分は素直に、Japanだと答えます。

日本には、世界にもっと理解され、採用されていい文化やモノの考え方が、沢山あります。その中には僕ら自身も理解していたり、過小評価していることがある。
日本のことを自分たち自身もよく理解し、世界のこともよく自分の肌で見聞きして、沢山の文化に触れる中で、これまで築いてきたreputationとrespectを、僕ら以降の世代にも絶やさないように、進化させながら受け継いでいかなければいけないと思います。
それは、大袈裟な話しというより、海外にでた日本人の1人1人が日々の行動の中で担っているもの。

出来ていないこと、未熟で至らないことは大量にあるわけで、独立してみたりすると、そういったことを尚更痛感することだらけですが、それでも日々、日本人としてはちょっとだけ背筋を張って、それでいて謙虚な心を忘れずに、行動したいと思います。

冒頭の写真は、ドイツが欧州を救っている、というFinancial Timeの特集です。

ドイツ人はヨーロッパ人の中でもっともよく働いているから、という選択肢が用意されています。
日本とドイツは捉えられ方としてはよく似た国ではないかと思ったので使ってみました。

欧米勢に勝たずにアジアで勝てる勝機はあるのか?

Googleの新しいプロジェクト、Project Loon。

また、グーグルにガツン!とやられた感覚をもったIT業界の人は大勢いるんじゃないでしょうか?一体自分たちは何をやってるんだろう?自分がやっていることに一体どれだけの人生を賭ける意味があるんだろう?なんて。

グーグルは、世の中の大半を占める我々中途半端な人種に、どれだけ無力感を与えるつもりなんでしょうね?w 最早その辺で野菜の露地栽培でもやって細々と暮らしていいのではないか?という気になりますが、まあそんなことを言っていても仕方ないので、無力は無力なりに前に進んで、神が作ったインフラの上で、神の手には負いきれないエリアで遊ばせてもらうしかありませんね。

 

ところで、こうネットサービスのグローバル化が進んでくると、IT企業もやはり海外に出て行かなければ成長機会を失う、と感じるわけで、相変わらず多くの企業が海外進出を企画しています。

が、アジアに出て行く日本企業の多くが、どうも、「アジアなら何とかなるかも」という感覚で出て行くように思います。

それは、日本企業のほうがアジア企業よりは金もあるし、技術も、ノウハウもある、という無意識の前提がそこにあります。

もしかするとそれは一部正しいのかもしれませんが、「現地を知らない」「現地語が分からない」というハンデを考えれば、そんなアドバンテージは殆ど何の役にも立たないのが現実だと思います。

実際、資金があまりかからないという点についても、「当の日本人自身がめちゃめちゃ金食い虫である」という事実を都合良く棚上げしています。日本人の給与をかんがえると、アジアの平均的会社員の20人分は働く必要があります。いくら日本人が優秀でも結構大変なことです。

そして、もっと多くの日本企業が忘れがちだと感じるのが、「美味しそうなところには欧米勢も目をつけている」という事実です。今であれば、日本企業よりも資金力を持った中国企業や韓国企業が同列に参戦してきています。彼らの投資は日本企業よりも余程組織的であり、必要な準備を整えた上で、一気に攻めてきます。浪花節でなんとかなるものだと考えている会社は殆ど無いんではないでしょうか。

ところが、多くのIT系の日本人と海外市場について話していて、欧米の企業のことが話題になることは殆どありません。サービス提供側も、広告主も、全てにわたって欧米ブランドが大量の資金を動かしているのに、です。

 

例えば、海外調査をして、この国の◯◯の市場は100億円市場だとする。

ですが、そのうち90%は欧米企業の予算だったりする。

これを取りにいかなければ、のこり10億円市場を他の日本企業やローカル企業と三つどもえで争うことになる。厳しい戦いです。

 

日本人は、ローカル企業の手が届かない一部のエリアにおいては、アジアにおいて自分達がマスターになりえると思いがちですが、そういったインターナショナル系事業における真のマスターは欧米勢であり、欧米勢に勝たなければ真の成功は得られない市場が大半を占めると思います。特にソフトサービス、情報サービスの戦場は、欧米勢の独壇場です。

欧米勢は侮り難いです。彼らの侮り難さの背景には、巨大な資金力、超大型予算を持つグローバル企業とのネットワーク力、情報発信戦略への理解とそれによる強力なブランド力、そしてグローバル展開を現実のものにする人事組織力があります。特に後者2つは日本企業が極めて軽視する分野ですが、実際にはここで負けるとほぼ勝ち目がありません。

日本人がそこに勝つには、アジアにおいて同じ想いを持つアジアの人たちを味方につけ、運命共同体としてお互いに教えを請いながら、一緒になって戦うしかありません。

そして、単にアジアで勝つことではなく、強力な欧米勢を圧倒するつもりで事業展開するビジョンと、そこに対する確信が必要です。ここに賛同してくれる挑戦的なアジアの人はどの国にも少なからず確実にいるというのが自分の印象です。

 

自分自身、海外事業の立ち上げを行ったときには、実際に展開してみると、すぐにそれが「グローバルビジネス」であることが分かりました。つまり、グローバルプレイヤーとのガチンコの戦いだった、ということです。

僕らが追い求めていたのは、本格的なビジネスだったので、一貫して、自分たちが攻めているエリアにおける圧倒的No.1になり、グローバルプレイヤーを駆逐するつもりでやっていました。

注意しなければいけないのは、欧米系の企業を相手に戦っていると、あたかも、遠く欧米からやってきた白人を相手にしているのかと思いがちですが、実際に相手にしているのは、彼らに高給で採用された、各国の超優秀な幹部社員であることが多い、ということです。

つまりブランドこそグローバル企業ですが、中身は最優秀なローカル企業だったりします。実態がどうなのか、よく見極める必要があります。

よく、同じアジア人である日本人の我々にはカルチャー理解という点でアドバンテージがあると思いがちですが、そんなことを持ち出すと、失笑されるだけ、ということです。

自分達が置かれていたステージを考えれば、圧倒的No.1を目指すなんてことは滑稽なアイデアだったかもしれないですし、実際内外からそう言われることもよくありました。社内ですら無理だという悲観的な空気は頻繁に出ていました。が、こちらは大真面目で考えていたし、それが出来ることについての確信もありました。出来ない理由ではなく、それを可能にするための施策だけを考えて進めていたわけです。

 

海外畑から離れてもう1年以上経ちますが、あらためて、アジアに出て行くのであれば、欧米勢についてもよく調べて、彼らに本気で勝つための戦略を考え、アジア人同士で結束して、自分たちが定めたエリアで世界一になる、というビジョンを持って出て行ったほうがよい、と思います。

そういう意味では、よく外野の批判にさらされるサッカー日本代表と、海外に出て行く日本人ビジネスマンは共感できるポイント多いんじゃないかと。

頑張れ日本代表!

最近自分がヒットした動画です。川崎選手ホントにかっこいいですね!

 

まあビジネスなので、上手にできることにこしたことはないわけで、こんな正面衝突戦略には異論もあると思いますが、どうでしょうか。

To the leaders of the three countries who must lead Asia and the World.

Today, my morning started with a disruptive news that one
of young Japanese political leader mentioned his personal view
about the necessity of sexual services for soldiers during wartime and it must be justified as it was historically accepted as such.

It is not so unusual to see such politician’s radical and biased opinion in a news as we all know, but because
it’s been just a few days since we saw a controversial mentioning about Islamic culture by Tokyo governor which threw Tokyo into a difficult position in the candidacy race to win the Olympic 2020 (by the way who cares about it in Tokyo?), I was so disappointed to hear that news and shocked to know inability of those political leaders to learn.

Historically accepted or not was
not an issue. If the comfort woman problem was a reality or not was
not an issue, neither. The real problem I saw was he spoke out to the nation (even on his twitter account) as his way of thinking that it should be justified if other nations do the same, and those
oppressed people if there were should accept it to some extent as it was a requirement of the era.

National leader must not speak in such a way.

Here is the situation we see in the political scene these
days.

China steps into the Japanese territory around the disputed island everyday just to show they are brave but they don’t know they look like just a thief.

Korea is trying to set up several int’l diplomatic meetings w/o calling Japan, even in the case it’s about their national security where Japan obviously has a concern because they want to behave Japan is not important for them while
it’s not true.

On the other hand, many Japanese politicians continually behave arrogantly and show they don’t have real sympathy or respect to the other cultures.

I think all of these are not about the history. These are about their own personality. All idiot and childish nationalisms.
Sometimes I feel it’s because of
these three countries that Asia can’t lead the world for long time. It’s been obvious from 1860s.

All should watch this video every time before they talk about any diplomatically sensitive issues, and should know how the pride of the nation should be shown.

感覚値に訴える印刷コンテンツの世界に、テキスト文化のウェブがもたらすもの

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最近仕事柄、そのあたりに沢山置いてある情報誌、タウンペーパー、フリーペーパー、ちらしのようなものを注意して見るようになりました。

そうやってよく見てみて気付いたのが、誌面の大部分が写真やデザインフォントで飾られていて、しっかり文章が書かれているものは実はあまりない。普通の人がブログに書くようなレベルの文章のほうが文章量としては多かったりする。たまにしっかり文章が書いてあるなと思うと、それは企業のタイアップ広告記事だったりする。

つまり、印刷物は、視覚的に美しくデザインし、レイアウトすることで、そこに大量の情報コンテンツがあるような錯覚を与えることに成功している。逆に言うと、印刷物の場合、テキストで情報を伝えるよりも、一目で何かを語るような写真とそのデコレーション技術だけでもかなりのボリュームのコミュニケーションを行うことが可能だということ。

一方、ウェブ上での情報の主体はテキスト情報であり、フォントもそれほど多様ではないので、あまりごまかしが効かず、テキストのボリュームの少ないコンテンツは文字通り薄いコンテンツという捉え方になる。よく、通信社から配信されてくるニュース記事などを見ると、タイトルで引きつける割りにはニュース本文のボリュームが非常に少なく、「わざわざクリックさせておいてこれだけ?」と思うようなことがありますが、それがその典型的な例かと思います。

先日、ある著名雑誌の編集長が、雑誌のコンテンツをウェブに展開するのはかなり難しいんだ、ということを仰っていました。その時は、元のコンテンツのボリュームが相当あるのにどう難しいのか?、と、いまいちピンと来ていなかったのですが、実はそういうことなのかもしれない。つまり、できるだけ読まなければいけない情報を削ぎ落とし、視覚情報8割ぐらいの感覚イメージで訴求するのが出版の世界で、「読む文化」が主体のロジカル訴求のウェブとは大分異なるということ。

そう考えると、ブログを更新し続けている人など、この膨大なコンテンツが氾濫するウェブ空間の中で多くの読者を集め、鍛えられているような人のほうが、実は紙の世界のライターよりも文章力があるという世の中に既になりつつあるのかもしれません。

同時に、いま、印刷の世界で、本当はもっと物を書きたいのになかなか紙面や予算の関係で思うように書けずに、力を発揮できていないと感じているライターや記者の方も沢山いるのではないかという気がする。そういう人たちは、実はウェブ上で思う存分に書いていただいたほうが、その本当の実力を発散できる可能性が十分にある。

これまで、紙からウェブの世界への情報発信の軸が移り変わっていくことについては、主にビジネスモデルの観点から比較的消極的な論調が多いですが、実は、本物の物書きにとっては、寧ろウェブの世界に移行することが必然で必要なことであって、本来あるべき価値に回帰できるチャンスだと考えてもいいのかもしれません。

自分は今までこの事実にあまり気付いていなかったので、やはり「書く」という文化の主体は印刷物だと思っていましたが、実態としてはそうではない可能性があるということで、最近自分が興味がある、オンラインとオフラインのハイブリッド出版というもの意味合いを考える上でも面白い発見になりました。

海外進出をまかせられた日本企業の日本人社員の一番大事な役割

北京のスターバックス

北京のスターバックス

日本企業が海外展開を迫られるなか、海外で事業立ち上げなどを任される日本人は今後もますます増えるのだろうと思います。

が、肩肘をはって、俺は海外でもやれるはずだ、その土地に骨を埋める覚悟で、とか、グローバルビジネスマンになるんだ、とか、そんなことは思わなくていいと思っています。

知らない土地に行くのに、そんな覚悟を決めるのは非現実的です。

大体、そんな覚悟を決めなければいけないような人はあまり海外に向いていないです。その人がやれることは、たいがい、現地の人にしっかりした給与と目標と権限をあたえてやってもらえば、その人よりもずっと上手にやるはずです。

あまりに仕事仕事と考えている生真面目な人ほど、プレッシャーと義務感、故郷に錦を飾るんだ、という感覚が強すぎて、気がつけば事務所とアパートの往復しかしていない日々を過ごし、本社の日本人との関係だけを頼りに何ヶ月も孤独に過ごすことになります。 肩肘をはらず、余暇をみつけてはいろんな地方を巡り、現地の人たちと友達になり、そういうスタンスを大事にしておかなければ、現地マーケットを知る人間になる、という、会社にとっても自分個人のキャリアにとっても一番大事なミッションを実現できないのは自明のことです。

それよりも、自分がさっさと日本に帰ってこれるように、信頼に足る優秀な人を採用するための権限規定と給与モデル、そしてどういう付加価値をそのマーケットで出していきたいのかという、事業ビジョンを明確にすることに全力を注ぐべきです。それが日本から出ていく海外進出隊長の、最大の役割です。

日本に進出してくる外資の社長が、日本人をさしおいて日本語も分からないのにガンガン営業に出ていって、自分の思い込みで捉えた市場環境を本社に報告していたらどう思うか?という問題です。余程優秀な外国人でもない限り、きっと、その外国人社長はとんちんかんなことばっかりやっているに違いないし、日本人スタッフはやることもないから辞めるでしょう。

日本企業の多くがこれをなかなかできないでいるのは、海外進出にあたっての明確な目標やビジョンを後回しにしており、そのために現地採用スタッフの達成すべき目標と成果報酬を決め、それを達成するための必要な予算と権限を与える、ということを実行するのが非常に困難だからです。

ですが、この壁を超えてグローバル標準でやるか、徹底的に日本型でやるのか、それをまず経営意思としてはっきりさせ、従業員にも理解させるのはとても重要なことです。

このようなことも、まだ海外に実際に行ってないこれからの人にはなかなか意味が理解できないと思いますが、少し頭の片隅に置いておいてもらうと、現地での仕事で行き詰まったときにも、明確なゴールが見えてきて楽になるときがくるのではと思います。

広告モデルの違い:FacebookとGoogle

最近仕事の関係で広告業界の情報を大量にインプットし続けている。

モバイル領域の拡大とともに膨大な広告テクノロジーとスタートアップが新しく出て来ていて、既に業界関係者ですらその1つ1つの違いを理解するのが困難になってきていると思うが、ずっとトレンドを追っていると、結局、一部のニッチ領域を除き、市場自体は二つの企業によってその大半が専有されていくのだろうという、ある意味の諦め感というか、ゴールが見えてしまっているような感覚が生まれている。言うまでもなく、その2社は、GoogleとFacebook。

ただ、この2社の広告配信技術は、根本的に違う軸に基づくものなので、「どちらが覇者になるのか?」という議論が米国メディアでもよく取り上げられるが、いろいろニュース情報を見ているとどうやら行き着く先はそういうものでもなさそうだということで、両社の広告の特性が何なのか、備忘録を兼ねて整理してみた。

①広告配信のベースになるもの

Googleはクローラーが取得するテキスト情報とメタ情報。

Facebookはソーシャルグラフとユーザー属性。つまり人情報。

②広告配信先

Googleは静的な情報(ストック)に対して配信する。

Facebookは人(フロー)に対して配信する。

③広告配信方法

Googleは、Adsenseもあるが、基本的には能動的な情報検索アクションに対するレスポンスとしての配信である。

一方、Facebookは、属性とソーシャルグラフを元にしたプッシュ配信であり、ユーザから見れば受動的行動である。

 

細かな技術革新や買収、周辺領域サービスとの連携拡大などによって、2社の広告配信技術はどんどん変わっていくであろうけども、ベースがそれぞれ検索エンジンとソーシャルネットワークである以上、広告配信の発展の道も、基本概念は上記から殆ど変わらないのではないかと思う。

と捉えると、この2社の技術は、そのベースの発想や適性が異なるので、なかなか正面からぶつかることはないし、インターネット上に今後も膨大な数のサービスやサイトが生まれる中で、どちらかの技術で広告市場がdominateされるという事もなく、それぞれが、ストックとフローという、ネットの情報流通の中で絶対になくならない要素と密接にかかわり合った基幹広告インフラとして成長していく気がする。つまり、それぞれの得意領域で圧倒的に高い広告効果を出したとしても、相手の得意領域の中では、お互いになかなか勝てそうにない、ということ。

それにしても、今年のFacebookのモバイル向け広告ビジネスは段違いの成長となりそう。他の全ての広告テクノロジー会社の努力が霞んで見えるような成長を見せるのではないかという予感がしている。

日本の個人寄付市場拡大のカギを握る戦略は何なのか?

寄付集めの実績を誇らしげに掲げる寄付キャンペーン実施会社の看板@2012 NTEN in S.F.

寄付集めの実績を誇らしげに掲げる寄付キャンペーン実施会社の看板@2012 NTEN in S.F.

また、NPO/NGOと呼ばれる非営利業界のお話。

 

ちなみに、非営利業界というとそれは何を指しているのか、一体どういう企業体なのか、呼称として誤解/混乱を招きやすいので、僕は最近、パブリックセクター、という言い方をし始めている。

つまり、「公益」のための事業を行う民間団体なので、日本語にすれば民間公益業界、とでもなるかもしれない。

 

という前向きはともかく、最近始めようとしている、この、主に民間公益業界向けに提供していこうとしている事業の絡みで、一体、どういう水準の経済的成功をもたらせば、事業として成功基準と言えるのか?、ということを考えていた。

 

それを考えるとき、よく話しになるのが、日本では寄付市場が発達していないという話し。

引き合いとしてはよく、20兆円もの巨額な個人寄付マーケットが存在するアメリカが引き合いに出される。

そんなマーケットを比較に出されると日本だって3兆円5兆円みたいな世界にいけるのではないかとなんとなく安易な妄想に浸ってしまいそうになるが、果たして本当にそうか?、それは現実的なターゲットになりうるのか?、と思い、改めてラフではあるがマクロに分析してみることにした。

 

まず、寄付市場というとよくアメリカを引き合いに出すが、寄付がお祭り騒ぎすぎるし世帯の所得格差なども参考にならない新大陸国家なので、国の構造や文化として日本とより近い英国と比較してみる。

 

英国の寄付市場は2006年時点で1.5兆円。個人寄付はうち7割なので1兆円強である。

日本の市場は遅れていると言われているのだから、英国の2006年あたりと比較してもまずまず良い指標であろうということで、これをベースにしてみる。

 

そうすると、日本は人口は倍なので、単純計算して2兆円が寄付に行く余地があることになる。「文化の違い」を考慮して思い切り寄付率を差し引いて6掛けぐらいにしても1.2兆円ぐらいいけそうである。

実際には日本の寄付市場1兆円で個人寄付はうち5000億ぐらい。なので、追加で7000億円ぐらい引き上げる余地、つまり今の倍ぐらいに行くポテンシャルは本来あるということになる。でも、逆にいうと、3倍はともかく、4倍いくかどうかは微妙、ということでもある。こう見てみると、米国との比較なら50倍15倍に伸びる必要があるが、それはかなり夢物語だなあ、という現実ラインが見えてくる。ちなみにオンライン寄付額が、米国と同様の5%程度になるとすると、オンライン寄付市場は350億円ぐらいのマーケットになる。

 

次に、実際に誰が寄付するのか、ということを考えてみる。

もちろん、大学生以下に寄付を期待することはできない。ということで、日本の25才以上の人口は9500万人ぐらい。これがまず母体である。うち、子どもが社会に出て寄付余力がありそうな50才以上の人口は6000万人になる。よく言われるように、ここの年代がどんどん増えているのが日本の人口動向だ。

 

最後に、それらの寄付母体に対してアプローチすべき手段を考える。

いま、寄付文化を作ろうという動きがあるがそのメインはオンラインやソーシャルでの取組みばかりだ。オンラインサービスが発達して誰でも意思さえあればネットにアクセスできる時代がきているのだからこれは至極当然の流れである。

ただ、冷静に考えてみると、現時点でネット上の小難しい寄付サービスが、ターゲットに出来そうな25才〜39才の人口は2500万人しかいない。

その10%が継続的な寄付人口になるという驚異的な結果が仮に生まれたとしても、寄付余力としては年間5000円程度が関の山なので、総額で125億円の増加にしかならない。単純計算しても仕方ないが、これを全国5万の非営利団体が分かち合うと、なんと1団体あたり、25万円にしかならない(!)。

となると、いまの、クラウドファンディングだなんだという騒ぎは、この20-30代へ主にアピールしているため(しかできないため)、この25万円を分捕り合うための仕掛けにしかなっていないのだ、と考えてもそんなにズレは無いのではないだろうか。個々の団体でたまに成功事例があったとしても、トータルで考えればなかなか厳しい取りくみである。

 

実は、本当に寄付マーケットを伸ばしたければ、残りの7000万人。特に50代以上の支出余力がある6000万人の中高齢者マーケットにどうリーチし、寄付行為に対するどういうインセンティブを与えるのか。そこをソフトランディングさせる手段を考えなければ出口が無いのではないだろうか。

オンラインでの寄付募集活動以外に目立った突破口が見えない中、一方で大きな財布を持っているのは中高齢者であるというギャップにどうアプローチできるか。

テクノロジーソリューションの提供サイドにいる我々世代は、これを考えないといけない。

それが今日のところの結論。

完璧な感動:オーケストラを見にいこう

ベートヴェン『第九』特別演奏会 by 東京フィルハーモニー交響楽団 場所:東京オペラシティ Dec/21, 2012 大植英治指揮

ベートヴェン『第九』特別演奏会(大植英治指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)

心の底、むしろ全身から感動。

どこかの映画のパンフレットみたいだけど、感動に震えた。

 

12月21日(金)に、ご招待を受けて、東京フィルハーモニー交響楽団の第九のコンサートに行ってきた。

いくつか、小規模な音楽会、には行ったことがあるが、本格的なオーケストラの本格的な交響曲の演奏を聞くのはもう何年ぶりだかもう思い出せない。

 

場所は東京オペラシティコンサートホール

行ったことがある人からすればそんなことは何を今更、かもしれないが、アプローチからして素晴らしい。あの長い階段から既に演出が始まっている。そこを昇る他の方たちも、一緒にこれからコンサートを見るんだな、という微妙な一体感を味わいながらそこを昇る。横にエスカレーターもあるけれど、やっぱり、大きな空間に広がる階段を踏みしめながらアプローチするのが、オペラシティを設計した建築家の心意気が楽しめるのではないかと勝手に思う。

 

いや、絶対に階段を昇るべき。

建築家は故人で、名は、武満徹、というらしい。

 

ゲートをくぐり、レセプションエリアを入ると左手にホールがある。

何気なくホールの扉を抜けると、圧倒的な空間。これも、文字にしたくないぐらいだが、圧倒的。

 

オペラシティの公式サイトの写真が伝わりきらない気がするけど、仕方ないので載せておく。実際はこれの何倍もいい。何がいいって、床を踏んだときの感触が何とも言えずいい。そんなの写真で表現できるわけがないか。だから、行くしかない。

東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル

東京オペラシティコンサートホール タケミツメモリアル

ちなみにホール内は撮影禁止。撮影すると怒られますので注意。僕は見事に怒られた。。

 

有り難いことに招待券で凄く良い席に行かせて頂いたせいか、席に座ると、座席の周りの方はみな、何かしら成功したような人達ばかりで、「社長、うちの社員の人間が今回の衆院選で当選しまして」なんて話しが飛び交っていた。

 

客席の少し照明が暗くなると、オーケストラの方が入場してきて、続いて指揮者の大植さんが入場してくると、意外にすぐに演奏が始まる。曲目はモーツァルトから始まり、後半が第九。

 

演奏が始まってからしばらく、まずは物珍しさに目を凝らしてステージを見ていた。そのうち、視覚にとらわれているいるような気がした僕は、生意気にも耳だけで聞いてみけばもっと音を感じられるんじゃないか、と思って目を閉じてみた。

意外に気持ちに響かない。

 

目を開けてみると、バイオリンやコントラバスの弓の、旋律に沿った激しい動き。それぞれに演奏している方ひとりひとりの表情にある緊張感、特に自分のパートを弾き始める前の構えに入るときの緊張感。意味不明な高速な指の動き。そしてその全体のオーラを引き出している指揮者の全身の筋肉の躍動。こういうのが全部飛び込んでくる。

そういうこと、全体のその演奏の人間臭さも含めた上で完璧を求めていって、いまそこでステージの上でその最高レベルの結晶をただその表現することを目的に表現しようとして全員がそれに没頭している、そういう姿を見ていると、どうして人間は、ただ単に生きるということだけでなくこういうものを生み出したり理想を追究することに時間を費やしてきたんだろう、ベートーヴェンがこの曲を作ったときどういう気持ちで1つ1つの音符を譜面に書いていたんだろう、それを初めて演奏したときはどうやって楽団が組織され、初めてその譜面に向き合った人達は耳の聞こえないベートーヴェンの楽譜をどう読み込んで演奏にしたんだろう、そもそも長い歴史を経て色々な楽器やオーケストラが演奏されるような環境がヨーロッパで生まれて、それが長い年月を経て日本に渡ってきて、沢山の人がそこに未だに情熱を燃やしていて、いまこうやって僕らがその演奏を聞いてまた感動させられていて、とか、いろいろな思いを引き起こされる。

 

こっちも目、耳、皮膚に来る波動、こういうものを全部総動員して聞くから聞くのも結構疲れる。正直言うと、5分ぐらい音楽に没頭して、ふと疲れて、「あと何分で終わるんだろ?」って思ったりもするw。音楽に没入して、オーケストラで癒される、なんて話しがあるけれど、あれはウソじゃないの?と思う。あれは、音を表現してるというより音でストーリーを表現しようとしている尋常じゃない人の緊張パワーの塊が押し寄せてくるのだから、聞いてるこっちも緊張する。第九なんて70分もある。70分間、スパルタ教師の授業受けてるのと一緒。ゆっくりゆったりしてなんかいられない。だから、楽章と楽章の間に、沢山の人の咳払いが聞こえる。あれは、みなが緊張した後の緊張のほぐしに違いない。楽章の間の間がなかったら、みな、ヘトヘトなはず。

そうこうしている間に、ラストのクライマックスへ。

 

最後は、剽軽な大坂のおじさん、みたいに思った、指揮者の大植英次さんの小柄な体が爆発するように激しく動き、それはまるで最後に大玉の花火がドカン!と打ち上がったような感じで、それに即応で会場側からも新年明けの爆竹のように拍手が湧き起こり、鳴り止まなかった。そこにいた全ての人の心がつながった瞬間だった。

指揮者は、いったんステージにあがったら、あれは指揮しているのではなくて、自分のパートの音でしか表現できない演奏者1人1人の気持ちを、体全身で代弁してあげることで応えてあげるというのが最後の役割なような気がした。大植さん、最高。

 

完璧な感動。

 

日本は感性の国だから、オーケストラはこれからも世界水準だろう。また行こうと思う。

Googleはなぜキングなのか。

最近、GoogleのLarry Pageのインタビューを読む機会があり、見事にブレないなと思わされたところ。

そして、今日もそう思わせる記事がリリースされていた。(写真をクリック)

Google to Tackle Mobile’s Fat Finger Proglem

Googleが、モバイル端末上でユーザが間違って広告を押してしまうことにより、意図せず広告サイトに遷移してしまう問題を解決するため、AdMobに新しいテクノロジーを導入し、広告に触れたときに本当にそれが意図的なものなのかどうかを確認するステップを入れられるようにした、というリリース。

Googleが、単に検索エンジンの王者なのではなく、なぜネット広告業界のキングであり続けるのか。

ネット広告ビジネスが次から次へと生まれるのに、結局のところ、Google一社でいいんではないの?と思わせる要因はどこにあるのか。

その答えの1つがここにあると思う。

つまり、普通のネット広告事業会社は、「いかにクリックさせるか」という視点でプロダクトを開発するのに対して、Googleは、「いかに”無駄な”クリックをさせないか」という視点でその広告商品を開発している(ように思える)。

このGoogleのアプローチと、同じアプローチを根本思想にもって広告商品を開発している会社は他にあまり無いのでは?と思う。

これからモバイル広告が増々収益の柱と化していくであろうこの時期に、今回のリリースのような手を打ってくるところが、やっぱりいいPhilosophyを持った会社だ。結局こういうところにその事業そのものが持つエンゲージメント力が内在されるのは疑い無い。

信道の精神で、見習いたいと思います。

われわれが開発しているものは何なのか?

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「今後の施策をみなで考えよう」

こういってプロジェクトメンバーで一緒に集まり、みなで考える。

みなでウンウン唸って考える。考える。

何も出てこない。

5時間たち、やっぱりまだ何も出てこない。

出てきたものはありきたりでいまいちみな自分自身納得しきれていない。

まあでもとりあえずこれで進もう。きっとこれが一番のはずだ。よし。取り敢えず走ろう。

 

センセーショナルなデビューを飾ったとしても、それを継続できるチームは少ししかいない。一方、地味にずっと業界をリードし続けている企業や事業は知らないだけで沢山ある。

レディーガガはあっという間に世界の音楽シーンのトップに立った。しかしそれを続けることのほうが大変だ。それを過酷な競争環境の中で何年も続けているのだからレディーガガ・チームはスーパーチームに違いない。

 

おそらくWebサービスに限った話しではないが、プロダクト開発をしはじめると、想定していた利用者の反応と実際が違っていたり、思ったように利用者が集まらなかったり、どこかで一度暗礁に乗り上げるときがある。

一度盛り上がったサービスも、ユーザが飽きてきて、新しい何かを提供しなければいけないのに、みんなで考えてもナイスなアイデアが浮かばない。

そうこうしているうちに事業モーメンタムが縮小していく。売上も下がる。諦めの気分が広がる。短期的な施策を実施し、短期的な結果で終わる。自転車操業のようにまた短期的な施策を考えて実施する。

「もう結構頑張ったし、コンセプトを変えてまた新しいことやろうか」

よく起きることだと思う。

なぜこんなにアイデアに枯渇するのか。前進感なく流されるようにチームは自転車操業を続けるのか。

 

一方で、まるで毎月のように着々と新しい改善を加え、驚くような施策をうってくるサービスもある。アイデアに枯渇している事業は、残念ながらいつまで経っても万年フォロワーである。そんな考えがあったのか!とその成功モデルを取り入れることに一生懸命になる。

なぜリーダーになれる事業とフォロワーになる事業は固定化されるのか。

 

 

ウェブサービスに限らないと思うが、プロダクト開発をしばらく続けていると、開発しているのは機能ではないということに気付かされる。

開発しているのはそれを使う側の人の豊かになる気持ちだったり、そこにアプローチしてくる人のマインドだったり、新しい学びだったり、そういう派生していく内側のものをサービスを通じて開発している。

ここに気付いているチーム、何を開発しているのかをビジョンとして描いているチームは、機能の次元のアイデアに枯渇することは無い。寧ろ、実現できていない施策の山に常に埋もれている。

人の内側にしっかりと刻まれる記憶を開発する。それがまるで一つの生き物のように定期的にシグナルを発する記憶を刻む。

それが究極のビジネスモデル。

ウェブサービスは特に、五感で感じることが難しく、機能開発も簡単に出来てしまう。そのため、「マッシュアップ」したりちょっと手を加えることで開発だと捉えてしまいがちな部分があるように思う。

しかしそれは開発しているのではなく、綺麗に整頓しているだけだ。

 

ウェブ業界に入って8年ほどになるが、サービスにしろ広告商品にしろ、組織体制にしろ、あらゆるものがマッシュアップされ、それを開発だ、企画だ、と言うことが多い。

 

先日プロダクトデザインの現場に入っていったデザイナーの方と話しをする機会があった。

プロダクトデザインはウェブデザインと異なり、まずそもそも三次元になる。

三次元になるとどういうことが起きるかというと、手でさわったり、口で触れたり、体ごとそこに乗っかったり、そういうことが出来るようになる。つまりプロダクトを全身で体感することになる。

同じ用に形を作っても、素材の耐久性や柔軟性、感触など、いろいろな要素があり、それらを学んだ上で適切な選択をしなければならない。そこから既にデザインが始まっている。

それらを全て含んだ上での利用者体験を開発していることになる。

マッシュアップ、しただけでも製品は作れるだろうけど、すぐにそれは在庫の山となって破綻する。ウェブサービスの場合は積み上がる在庫という恐怖が無いので、簡単に隠れ在庫を作ってしまえる。

 

面白いだけでも、便利なだけでも不足している。

人が自然と温かく、心地良くなれるような、気持ちそのものに焦点を当てて、そのための手段としてサービスを作る。

そういうプロダクトは自然とリーダーになる。仮に他に競合がいても、市場を引っ張る双璧、と言われてお互いに切磋琢磨するだけのこと。施策に困ったり、競合に追われたり、市場環境の変化についていけずに自転車操業になることもない。施策は溢れ出る。悩むのはそれをどう実行するか、の部分。

これがビジネスのコアモデルであり、Engagement開発のベースモデルではないだろうか。

開発しているのは機能ではなく、人の内側にあるポジティブな記憶だと思うと、なぜあのサービスは常に先を走り、あのサービスは停滞しているのか、それが分かるように思う。

マッシュアップをしているうちは何も進化していない。そこでのスピード感は、根本的に何も前進していないのだからスピードではない。

人の気持ちのひだに跡をつけるスピードがどうなのかを、意識したい。