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30年後のFacebookと社会

すっかり当たり前なインターフェースとなったFacebookのタイムライン。

世界中の何億という人の自分史をいま、せっせと記録し始めています。

自分史というコンセプトまでいかないまでも、Twitterもまた、立派な自分史となっています。そう主張していないだけで。

特にIT業界の人にとって、もうFacebook/Twitterはあらゆる意味で欠かせない存在となり、まるでもう何年もそれを中心に世界が動いてきたかのような感覚すら生まれているように思いますが、実際にはアメリカはともかく、日本においてはここ2年ぐらいで急成長したもので、それ以前は殆ど話題にもならなかった物です。アメリカですら、ここ5年ぐらいでSNSの勝者として認知され、いつの間にかそれが、ソーシャルグラフなどと呼ばれ、気付いたら自分史になっていたということなので、Facebookという世界が形作り始めた社会が何なのか、そこに住む住人ですらまだよくは分からないという、出来立てのほやほやな世界なのだと捉えてもいいのかなと思います。

FacebookについてはIPOで一旦の段階に行き着いたような感覚もありますが、このサービスが目指しているのが本気で「自分史」になることなのだとしたら、実際にはむしろ、サービスとしてはせいぜいまだ2-3才の赤ん坊でしかないわけで、現在30代の人間の一生を途中から綴っているとしても、少なくともこれから更に30年から40年は続いていかなければ、人1人の一代の記録すら綴れずに終わってしまうことになる。ザッカーバーグ氏はまだ若いので、少なくとも自分の一生ぐらいは本気でFacebookに綴らせるつもりでしょう。となると、僕たち一般ユーザーも、いまは自分一人が日々向き合えばいい、という程度の感覚でこの便利なサービスを使い倒していますが、実は、そこでアウトプットされたことは、30年後、40年後にも残っていることがリアルに想定されるし、下手すると子供や孫の世代でも残っていて、何かのきっかけで読み継がれて行く可能性があるということになります。

ザッカーバーグ氏を始め、頭のいい人達はこんな可能性にはとっくに気付いていることと思いますし、Facebookではきっとこのような議論は何度も交わされていることと思いますが、自分は最近、それが人間の社会概念に根本的な革命をもたらす可能性があり、一方では大変な危険を生み出す可能性があるということをようやく感じています。それは、最近起きている政治運動や社会運動のような次元のものではないです。それらは、Facebookが加速させただけであって、もともとあった病巣を社会が自分で正しただけだと思います。自分がもっと大きな変革あるいは脅威ではないかと最近思い始めたのは、①家族概念の崩壊、②Identity Crisis、それにもう1つ加えれば、③死と歴史概念の変化、の3つです。

 

1. 家族概念の崩壊

いま僕たちがFacebookやTwitterに綴っていることは、それらのサービスが存続する限り、30年たっても40年経っても誰かの目に触れ続けます。

人間は程度の差はあっても誰でも年とともに精神的に成長していく生き物なので、当然、今僕らが投稿していることは現時点での精神年齢を表しています。当然、それらの投稿の中には、20年後に見れば赤面してしまうようなものも含まれています。

同じCGM系プラットフォームでも、メルマガやブログではある程度の知的考察が求められるのでその投稿内容の精神的な品質には一定の抑制が働きますが、Facebookやtwitterはどうか? バースト的な投稿が気軽な投稿とそれによるストレス発散を可能にする一方で、その内容についてはあまり考えずに投稿することが当然ながら多いです。これが、本人だけが後日知ることになるものであればいいのですが、問題は、10年度20年後に、自分の子供がそれをふと目にする可能性があるということです。

これを読んでいるあなたが、少しでも「親がどう使っているか知りたい」と思ったことがあったとしたら、あなたの子供も当然そう思うはず。その時、何が起きるのか?

これはとても興味深い問題だな、と思います。

人間社会は程度の差こそあれ、「自分が知らない過去を知っている人」に対する尊敬と権威によって形成されてきています。

また、そういう権威の良い面だけを引っ張りだして神格化することによって、自分自身の目標を設定し、精神状態を維持する、という側面もあると思います。

家庭によっては親と子の間に友達のような関係を作っている家庭も最近は沢山あると思いますが、それでもやはり、子供にとって親はいつまでも感謝すべき立派な親だし、そうあってもらいたいと、深層心理で少なからず思っているものだと思います。

FacebookやTwitterは、この、「見えないことによる権威」を消滅させ、良い面も悪い面もむき出しに露出してしまう、それも世代間でむき出しにするという、新しい状態を世の中に作り出しています。

これは、Facebookの主張するような「何でもオープンにすることが良い世の中につながる」ということで簡単に片付けていい問題ではない気がします。

良い側面を捉えれば、親にもいろんな面があるんだと子供が理解し、より良い家庭が築ける可能性があります。が、一方で、子供に対して理屈ではなく何かを理解させなければいけないようなシチュエーションで、「親の権威」というものがこれまでのようには使えなくなる可能性があります。現状接している親の「今の真実」を知ることはこれまでもありえたことですが、親の「過去の真実」を生々しく知ることは、親の権威を圧倒的に低下させる可能性があるのに、「今」を行きている僕たちは、そんな将来のことまで予想して今を生きるわけにはいかないので、そこには大きなリスクが存在します。

おそらく、悪いことになるとしたら、その前に人間社会もFacebook自身も自然に変わっていくこととは思いますが、放っておけば、10年20年たったときに、こういう親子の関係の崩壊(あるいは進化)が発生する可能性があり、それは人間が何千年も前提にしてきたものが変わるということを意味するので、これはFacebookやTwitterの黎明期を共に過ごしている僕らも、そろそろ考えておく必要があるように思います。

 

2. Identity Crisis

これは一言でいうと、多重人格危機ということです。

FacebookやTwitterは今まで目に見えなかった社会構造の中で上位に位置する人達の活動を、かなり晒すようになっており、その結果、孫さんの「やりましょう!」に代表されるような、誰でもそこに対して気軽にアプローチしていけるというルートを作ったと同時に、人1人が行使できる影響力には圧倒的な格差があることをまざまざと見せつけています。

さらに、ソーシャル上に投稿される1つ1つの投稿がその人が「生きている」ということ、更には如何に自分が「充実した人生を生きているか」「知的体験を重ねているか」ということの証しになるような感覚を多くの人に与え始めているのは疑いのない事実だと感じています。

特に、アメリカのような人1人1人が主張し合いながら生きている社会に比べると、日本のようなもともと村社会的な絆を大事にしてきたコミュニティでは、こういったプレッシャー的な要素が大きくなっているように感じています。

一時代前なら「日経読もうよ」と言われていたのが、今なら「Facebook読もうよ」になっている、といった感じに近いかと思います。

例えば、会社を作ると法人格ができ、トップの意思に関わらず法人としての人格が成長し始めるのと同様に、この意識があまり過剰に進みすぎると、Facebook/twitter上の人格に現実の人が引っ張られ始めることは普通に起きてくると思いますし、今でも既にそういう状況は大なり小なり起きているはずです。ソーシャルメディアを熟知していてそれに対処できるように最初から使っている人はいいですが、そうでない人は「実際はそうでもないのにあたかも充実しているような体験を公開していくプレッシャー」に耐えきれなくなって、精神的にも追いつめられる可能性があると僕は感じています。

今から10年後も、20年後も、50才60才になっても、せっせとパソコンに向かってFacebookを更新しつづけている自分を想像すると、自分はぞっとしますが、物理的に今の世代がこのまま年を経っていく以上、そういうことは普通に起きる可能性があります。

これはただの想像ですが、20年後の病院の精神科や心の相談所には、「オンライン精神病科」という科ができて、ソーシャルサービスの重圧にやられて多重人格障害になった人を専門に治療しているのではないかと思います。きっと、そういうことになる前に物理的に人をネット環境から隔離してくれる予防キャンプみたいなものも盛況なんじゃないでしょうか。

 

3. 死と歴史概念の変化

これはあまり危機的なものなのかどうかは分からないですが、取り敢えず絶対的に発生することとしては、人が生きていた証しが、オンライン上に半永久的に残り続けるということで、それ自体がお墓になります。

人は、家族や知人が死ぬと、お墓にお参りに生き、そこで故人を偲ぶ、ということをしますが、20年後には、オンライン上でその人のタイムラインを見ながら故人を偲ぶ、ということが一般事象として起きてくると思います。

また、家族概念の変化にも関係がありますが、これまでは、先祖や故人が作ってきた歴史を、誰か別の人が記録したりすることで今までは語り継がれてきたし、それを調査するのが歴史学者の仕事でした。が、ソーシャル上に大量の自分史が保存されている状況がうまれると、「その人が自ら書いた記録」がそのまま歴史になります。

語り伝え、という形ではなくて、リアルにその人が何を考えていたのか?というのが本人の口を通じて死んだ後も語られる、ということになったとき、それは死生観や宗教観にどんな影響を及ぼすんでしょう。自分にもまだよく分からないけれど、でも、死ぬときに「何も残せない」みたいな想いで死ぬ人は減るのかもしれませんね。そうなればいいことですが。でも、「私は死にました」みたいな記録が残り、それに対して回りの人が「(人生を全うできて)いいね!」みたいなことになるのかな、と思うとちょっとそれはそれで個人的には面白いです。

 

実際にはどうなるか分からないですが、いままでのソーシャルサービスの歴史はほんの導入部分で、これから僕らが想像できないぐらい長い時間こういうサービスが残り、増えていくことになると思うので、それが何を意味するかは、IT業界に身をおいている自分としては、後から後悔しないよう、それなりに日々の思考に入れておかなければと思っています。

心にひびかす修行

『おたがいに修行をしよう。自分は恵まれているということを、直接、自分の心にひびかすために、』

 

これは、『道をひらく』(松下幸之助)、におさめられている、

『恵まれている』

の中の一編。

 

今朝読んで、心にすーっと、沁みた。

 

文中にあるように、

人は日々家族や他人から、恵みを受けていきている。

 

日々、ただ死ぬ心配もせずに、「いかに成功するか」「如何に楽しく生きるか」だけを考えて生きていれるだけでも、恵まれているのは間違いない。

 

それでも、どうしても、「もっと成功したいのに成功できない」「あれもこれもしたいのにあれしかできない」という、できないのほうに目を向けてしまう。

「感謝してます!」と言ったそばから、一方でどこかに不満を抱えていたりするもの。

 

よく、電車の駅で駅員に詰め寄ったり、

レストランやお店で店員のサービスの質に文句をつけたり、

そういうことをやってプンプンしている人を見かけるが、

こういう人達は、自分は◯◯なサービスを受けるべきだと勝手に決めていて、それが提供されていないほうに目を向けている典型的な例と言える。

 

そういう状況を見ると、多くの人がその理不尽な要求ぶりに目をひそめて「そこまで言わなくてもいいのに」とは思う。

ただ、それは程度の差でしかなくて、こと、自分自身のことに関わるとなると、やはり多くの人が過大なことを期待し、それが提供されない不満のほうに目を向けがちになると思う。

結局、本質的には駅で駅員をどなりつけているイライラサラリーマンと何も変わらないんだろう。

 

自分は、

だからといって、

「ありのままの境遇をまず受け入れてみよう」

とか

「その中に楽しみを見いだす努力をしよう」

とかは言いたくない。

 

ただ、

自分のいまある環境は、

それがつつがなく動いていると自分が勝手に思いこんでいる部分については親、家族と社会に支えられていて、

そのつつがなさを超えて何かを成し遂げたいと思う部分については、

単純に自分自身の努力によるものだということを、

いつでも素直に受け止められて、

心と体が一体となった自然な行動を出来るようになりたいものだと、

あらためて思う。

なぜ非営利の活動、団体が増えているのか。

最近、思わぬきっかけで、非営利団体、非営利業界というところに関わりをもたせてもらうことになり、色々と調べたり、行事に参加させたりさせてもらっています。

その気になってみると、そういった非営利の活動に参加している方が、どういうわけか身の回りに沢山増えてきました。

 

東京に出てきたばかりの新卒社会人時代に一度、NGO団体のボランティアに参加したものの、すぐになんとなく違和感、自分自身の心の準備が出来ていない感じがあって辞めてしまって以来、興味は持ちつつも現実的には何もやってこなかった自分ですが、時代は変わり、今ではNPOという組織形態も普通に耳にするようになり、NPOだけでなく、様々な形態の非営利組織が作れる時代になっています。

 

実際、内閣府のホームページには、認定NPO法人の設立数の推移統計が掲載されていますが、現在では45,000法人にも達しており、毎年順調に法人数が増えています(下図)。

私の身近なところでも、地元の町会が、古くから「慣習」としてやってきた町の同志による互助組織としての運営では町会事務所などの不動産を含む資産管理の都合上、限界が出てきたため、NPO法人としての運営を具体的に検討し始めたりしています。

 

一方、残念ながら、非営利団体、の中には、怪しげな出自の団体がいたり、活動実態が希薄だったりすることもあり、世間での非営利組織に対する見方は、特に市民レベルの団体に対してはまだまだ「得体の知れない怪しい団体」、みたいな見方も多分にあるのが現状だと思います。

私自身、この業界について調べ、何が出来るのかを考える中で、正直、非営利組織とは何であるか、それの社会的必要性は何なのか、について根本的な疑問を持ちながら、私なりに業界を勉強し、課題に取り組んできました。ずっと営利会社に所属してきた自分としては、非営利という考え方をわざわざ取り入れることのメリットがよく分からなかったわけです。

 

ですが、ここに来て、少しずつ分かってきた気がします。

一言で言うと、非営利組織の台頭はつまり、

「市民政府」

の誕生に他ならないように感じています。

 

あまり、他の先人の仕事を調べたりしていないので、このようなことは既に言われ尽くしたことなのかもしれませんが、自分なりに、非営利組織の台頭の背景をまとめてみました。

 

非営利、地域活動団体が増えている背景:

①経済成長が飽和し高齢化社会になる中、税収の減少もあって行政の出来ることに限界が見えてきている。これにより、行政が解決できない社会的課題が発生しており、民間努力による解決のニーズが高まっている。

②以前あったような、ご近所付き合い、のような身近な結びつきが希薄になったので、生活している場所の近辺にも沢山の課題が目につくにも関わらず、そこに何の貢献も出来ずに「地元愛」を発揮できる機会が減っており、週末などは無為に過ごしてしまうことが多い。

③インターネットや携帯電話が普及することで低コストでの個人間のコミュニケーションが簡単に取れるようになり、結果的にニッチであっても同じ想いを持つ個人同士が結びつきやすくなっている。

④インターネットのもう1つの側面としてあらゆる行政/社会課題にアクセスできる機会が格段に増え、何かをしたいと考える人を増やしやすい構造になっている。

⑤何よりも、食べるのに困る社会ではなくなったので、誰もがそういう活動をする余地が生まれている。

これらの要因の結果、あらゆる種類の中小規模の非営利の市民/地域/NPO活動などが増加の一途を辿っている。

 

非営利組織には様々なものがありますが、根幹を成すのは、営利を上げて株主還元することを目標にせず、あげた利益を社会還元することを事業運営の目的にする、ということです。

私も以前は勘違いしていましたが、営利を上げること自体は問題ないわけです。が、株主に還元することを目的にしないということを最初から宣言している中で事業活動を行うところが全く異なります。

 

では、「社会の利益とは何なのか?」というところが大きな争点になるわけであり、そんなのは人それぞれの勝手な思い込みであって、利益を上げる株式会社自体が社会利益でしょう、という考え方もあってそれは勿論正しいわけですが、では、株式会社が世の中の全てを解決する存在なのか、といえば、やはりそうはならない。そこには厳然たる株主利益をベースにした優先順位というものが存在しますし、会社の中で社会問題がどうのこうのと言う人は基本的に「そういうことは外でやってください」という話しにしかならないわけです。

特に、社員が住む地域の問題などは、それは法人税地方税を納めているんだからあとは行政の問題でしょう、ということで、会社は知ったことはないわけです。

 

しかし行政は前述のように問題を抱えているし、動きも遅い。

そもそも行政は社会変革をする組織ではなく、社会をうまく平和におさめるための組織です。

そこで、思い込みだろうが何だろうが、社会に貢献したいという人が増え、仕事時間以外を使って活動する人が増えるのはもう必然的な流れなのだろうと思います。

 

以前は、社会変革や社会インフラの整備は、税金を納めている行政がやることだと日本人は思っていたと思います。

しかしNPOのような社会利益を目的に掲げる団体が増えることは、結果的にその領域について行政の存在を不要にする可能性があります。

これはもう、市民政府ですよね。

 

最近のコンプガチャ規制なども含め、政府は余計な規制をすることばかり考えていると思う今日、民間の非営利団体の活動領域が増え、市民政府が役人による政府を代替えしていく未来像を思い描くと、これはとても面白い未来像だと感じています。

仕事としても、意外と無限の可能性がありそうです。

 

とはいえ、資金が無い業界なので、課題は山積みなわけですが、個人的にちょっとワクワクしている今日この頃です。

 

もう何年も海外にいっていた父が、ついに帰ってくると言う。

もう年も取ったし、何年も前から帰国を勧めていたが、「まだやらなあかんことがあるんよ」「俺じゃないとできんからな」と言い続けてなかなか帰国しようとはしなかった。

それが、今年中に帰ると言う。

 

海外では事業の立ち上げを担当していたが、周囲の理解もなかなか得られない中、一人で各地を転々としながら事務所を立ち上げ続けていた。

帰国するのは海外がそろそろしんどいというのもあるが、現地で任せられる人材が育ったので帰れるのだと言う。

 

「誰かに任せられる状況を作る」ことは、あらゆる仕事の究極のゴールであり、いちばん難しいことでもあると思っている。

自分自身、海外事業を担当していたことがある身として、海外でのチーム立ち上げは、常に現地では全てを自分でも分からない中で暗中模索でやる必要があり、一方では本社サイドからは現場を理解しきれないので、やはりどうしても「なぜこれしきのことが出来ないのか?」という不理解、あるいは放置、うまくいかないことがあれば常に厄介もの扱いされる、という状況が避けられない。相当良い状況でも、「相談する相手がいない」というシチュエーションが発生するので、精神面での気持ちの保ち方が特に大変なことだと認識している。

 

そんな状況の中、父親が仕事をやりきり、帰国しようと思える状況にまで持ってきたことを、自分は誇りに思う。

プライベートでもとても苦しい時期があり、きっと絶望的な状況を見たと思う。

そんな中、心にいろいろな思いを抱えながらも、何年もかけて1つの仕事をやりきったのだろうということを、この年になって自分もやっと理解してあげることが出来る。

 

おめでとう、そしてお疲れ様、と言いたい。

今日の学び:礼節。配慮。

『先ず其の言を行うて、而して後之に従ふ。』(論語 為政第二)

 

今日初めて参加した論語の勉強会で教わった言葉。口先達者で実行の伴わないようではいけない。まず行うこと、という話でした。過去を振返るとまるで自分自身に言われたような気持ちになり、日々心に留めて意識しようと思いました。

今日は慶応大学の教室で講義を受けたのですが、三田キャンパスの古い教室は古風で小さな机と椅子がぎっちりと並んでいて、久しぶりに小学校に戻ったような新鮮な感覚でした。周りも多数の若年〜中高年の人で満員状態で、日本は勉強熱心な、良い国だなと強く思いました。

今日は軍事アナリストの小川和久さんが講演に来られましたが、講演はすごい迫力で一線級の人を実際に見ることはやっぱり大事。所感を書き留めておきます。

・組織に所属することに囚われない。個人としての自分は何者なのか。

・自分の貢献できる分野をしっかり見極めること。

・徹底的に調べることの大切さ。それを元に考え、主張する。

・第一ラウンドで終了にしない。モノになるまで何度でもエンドレスの覚悟で戦い続ける。

・強い意志、行動力があれば、大抵のものは動く。

・「巧く」やらなくてよい。沢山の敵ができてもそこに価値があり、大義があれば味方も必ずいる。大事なのは自分で動き、しっかりした仕事をすること。

・素晴らしく頭の良い人でも、誰もが持つような悩みに囚われることはある。

・破天荒に見える人であっても、礼儀正しく、ちゃんと配慮をしている。

・巧遅は拙速に如かず、について説かれていたが、拙速でも巧遅でもなく、要は必要なものを必要なタイミングでしっかり出していくことが肝心と理解。

 

特に礼節の部分は印象的。熱く、時に攻撃的な意見を体全体で表現しながらも、全体の雰囲気は和やかで、何よりも場が明るく、元気良く、そして礼儀があり、楽しい場でした。

人は、どんなに頭が悪くて何もできなかったとしても、礼節をわきまえることは誰でも出来ると思うし、それは日本人が古来大事にしてきた文化でもあると思う。つい礼を怠ってしまったり、感情に走って礼を失するようなことをしてしまえば、結局いつまでも気になってろくなことはない。新卒の頃、会社間のビジネスにおいても、どんなに相手が失礼であってもそれに流されることなく、正しい社会人として、自分たちの態度は一貫した節度ある態度を貫け、と言われていたことを思い出しました。

後悔先に立たず、ですね。

 

今日もよい一日!

再びスタートラインに。

2009年より約3年弱、株式会社Voyage Groupにお世話になり、Research Panel Asiaという大きな仕事をやらせてもらいました。

勢いだけで知らない業界に突入していった無謀なチャレンジでしたが、大変なことや辛いこともある中、何よりも沢山の素晴らしい出会いに恵まれ、社内のサポートもあり、沢山の仕事をすることが出来ました。多くの海外の人との交流もありました。いままでの社会生活の中でも何と充実した日々だったんだろうと思います。

しかしながら去年末、あるフィードバックを受けた際、自身の至らなさを瞬間的に感じました。それは、ずっと自分が抱えていた矛盾を放置していたことから結果的に生まれていて、何かを変えなければ本質的にだめなことは自分の中では明らかでした。それをきっかけに、自分なりに悩み、考えた結果、新しい道を模索することに決めました。

2005年の転職から7年が人生の第二周期だったとすれば、まだまだ中途半端だったかもしれませんがそれが終わり、大事な、人生の第三周期に入る、今、そのスタートラインにいるんだと感じています。

不惑という言葉がありますが、40才まであと3年となった今、本当の生身の自分に何が出来るのか、に挑戦し、人生を懸ける大きな道をつかむため、今自分が出来ることを、家族のためにも全力でやりきりたいと思いました。

その最初の一歩を、今日、株式会社Beproudで踏み出させてもらうことになりました。社長の佐藤さんは5年以上前から何かとお付合いさせていただいている、同年齢ながら僕がとても尊敬する人。たくさんの仕事を今まで一緒にやらせていただいたけど、いつも最高に信頼できる人、そして会社でした。今このタイミングでその人と仕事をさせていただくことになるのは、何かの縁だとしか思えないです。

去年亡くなったSteve Jobsの言葉に、”Leave the better world.”という言葉がありました。シンプルだけど自分には非常に刺さった言葉です。

僕がこの世界に入ってきたのは、自分の身の回りにいるようなごく普通の人が使って嬉しい、楽しい、便利、と思ってもらえるような気の効いたサービスや商品を作って、小さなことでもいいからこの社会の発展に直接タッチしたと思える実感が欲しいと思ったのが理由だった。でも、まだまだ全く出来ていない。程遠い。一方で今、ネット業界は完全にグローバル化し、場所がどこであれアイデアと行動力次第で、本気で世界を狙える環境がそこにある。

現段階で自分がやっていきたいと思う分野の軸は見えています。

今更感満載ではあるけれど、あらためて、自分が一緒に働く人に本当に喜んでもらえる仕事をし、良いサービスを作って世界の沢山の人に使ってもらい、自分もそれでHappyになるため、ゼロからまたやり直す気持ちで臨みたいと思います。

いいサービス、いい商品、つべこべ考えず、もりもり作るぞ!