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100年単位での都市開発と人の記憶

神戸ポートアイランド-ホテル付近空き地

神戸ポートアイランド-ホテル付近

自分の実家は神戸のポートアイランドにある。

ポートアイランドは、高度成長期に神戸市が可住地域の拡大を求めて計画し、80年代に完成した海上の人工島であり、東京のお台場などを含むその後のあらゆる日本の人工島/海上都市計画の模範となった場所である。当時、神戸市の大事業は、「山から海へ」ともてはやされたとされている、

1981年にはそのオープニングセレモニーとして「ポートピア博覧会」が開催され、海上に建設された当時としては圧倒的にモダンな高層マンション群には大量の住民がなだれこんだ。ポートアイランドには島内を巡る最先端の無人列車が走り、ポートアイランドの埠頭に建設された当時世界最大級のコンテナターミナルにはいくつもの巨大ガントリークレーンが設置されて大量の海上物流を支えた。その頃神戸市は絶頂期だった。

それだけではない。ポートアイランドに建てられた住環境と一体になった商業施設、よく設計された遊びやすい広大な公園、ヨーロッパなどの先端教育事情を学んだ校長を迎え、開放的な作りを取り入れた学校施設など、ソフト面でもポートアイランドは当時の最先端をいっており、それはおそらく、日本人にとって当時憧れだった「欧米風ライフスタイル」を体現した住環境だった。

その後、神戸市はポートアイランドよりも更に広大な敷地を持つ「六甲アイランド」を完成させ、それだけでもまだ足りないとばかりに1987年には「ポートアイランド二期工事」を開始する。完成したのは2005年。

いま、ポートアイランドは竣工後30年以上が過ぎ、高齢化が進んでいる。人口もピーク時より減少に転じ、第1期工事区内にあった島内の商業店舗はその大半が閉鎖され、閑古鳥が鳴いている。大規模な商業施設としては今はダイエーが1軒、細々と営業を続けているだけだ。

ポートアイランド2期工事によって拡張された区域に関しては開業当初から惨憺たる有様となっており、膨大な空き地が広がっている。2期工事区域だけでなく、その沖合にある神戸空港の敷地も含め、資産処理に困った神戸市が実績作りのためだけに土地を叩き売っているが、それでもまるでテナントが入らない状況がもう10年以上続いているのが現状だ。

先端医療研究都市という標語を掲げる一方で、すぐ横にある旧「神戸市民病院」は、メンテナンスも滞って民間に売却され、現役の病院でありながらまるで廃墟のような外壁を晒す姿に変わってしまった。

確かに、1995年に発生した阪神大震災は、神戸市の事業計画を大きく狂わせたのは間違いない。復興が必要になっただけでなく、その間に産業や物流拠点としての神戸の役割が失われ、神戸に対する人の憧れも過去のものになった。それでも、今、ポートアイランドに見られる空虚な環境は、地震の災害による影響だけによるものではない。未だにこの土地の店舗閉鎖は続いており、年々空疎化が進んでいる。それは、神戸市の本土地域においてかつてとは違う形とはいえ、復興が進んでいるのとは対照的な状況だ。

今、ポートアイランドにあるのは、誰の帰属意識もない「住んでるだけ」「働いてるだけ」「通学してるだけ」という土地に見える。お金を追い求めて行われた野放図な開発行政の一方で、本来あるべきコミュニティ作りという部分が疎かになり続けた結果が、今のポートアイランドだ。

かつて大量の人がショッピングに訪れ、にぎわったショッピングセンターは閉鎖され、島のシンボルだったホテルの周りは空き地になってしまった。冒頭の写真がその空き地の様子。

なぜこんなことになってしまったのか。

人工島は、行政にとってはビジネスを目的とした土地でしかなく、保護すべき土地としては考慮されていない可能性がある。しかし、そこで育った人間にとっては故郷であり、幼少時の記憶が詰まった土地だ。それが無惨な姿になっているのを実家に帰るたびに見るのは、非常にせつないものがある。

とはいえ、商業施設には栄枯盛衰があり、多少の入れ替えも仕方ない局面もあるのだが、もっとせつないのは、子どものころの記憶と連結したものが消失してしまっているという事実に直面することだ。

南公園

南公園

この写真はポートアイランドのかつての沿海部にあった「南公園」の残骸である。正確にいえばそこは今も南公園なのだが、この写真の手前にあった「ポートピア遊園地」は閉鎖され、代わりに巨大な「IKEA」が立っている。しかしそれよりも悲しいのは、この写真に見える道路だ。この道路は、かつて一続きにつながっていたこの公園を情け容赦なく直線的に分断し、向こう側を広大な野球場に変えてしまった。

かつてこのポートアイランドを設計した人は、島内の全ての公園を実に美しく仕上げていた。この公園にも、斜めにくねった散歩道が整備され、手前に見える青い部分はその終端部に位置し、神戸の海岸線の美しさを示す噴水になっていた。そして、公園からはすぐ南側に広がる海を見ることが出来、カップルやファミリーのくつろぎの場になっていた。

しかし、ポートアイランド二期工事が始まり、南側の海は遥か遠くへと遠のいてしまう。かつて海の波を防いでいた巨大な堤防は単なる陸上の障害物になり、その向こうに土地が延伸された。

本来、海上の景色と一体になってその存在価値を示していたこの公園は、ただの中間地点になり、人通りが途絶えた。公園に隣接していた遊園地も「海が見える」という特徴が失われ、大きく魅力を減らした。二期工事後の土地が全く売れず、土地が余っている様子を覆い隠すように付け刃的に南公園の南側に更に別の公園が作られた結果、公園自体の姿が大きく変容してしまい、施設の密度も無くなり、何のコンセプトも無い野原になった。広すぎる公園に対して適切な管理を施すことが困難となり、草むらはジャングルに変わっていく。更に人口減少と高齢化が始まり、人が来なくなってしまった。

それでも、子どものころ、この公園に学校の遠足で何度も来ていた自分にとってはここは思い出のある土地だった。が、その土地を容赦なく直線で横切る道路に、自分は衝撃を受けた。写真だけではそれは分かりにくいが、そこで育った記憶がある人がそこに立てば分かるはずだ。まるで、幼少時代の自分自身を斧でまっぷたつに断ち切られたような感覚を覚えた。だから、自分は、戦後の混乱の中で壊滅した都市から新しい町を作り上げていく中で大量の記憶を失ってしまった人達のことが想像できる。例え生活の向上が引き換えに実現されたとしても、生きている間に記憶の中にあったものが失われ、何の感傷要素も無く上書きされることはなかなか耐え難いものだ。

このポートアイランドの現状は、都市計画というものがどうあるべきかを、端的に示すものだと思う。

町は、それが町であり続けるためには、常に活力の源である人が流れ込む必要がある。一定の人の密度がなければ町は成り立たない。そして町には、そこに住む古い人、新しい人の双方にとって、常に記憶の拠り所となる「何も変わらないもの」が必要だと思う。それが、文化であり、土地の帰属意識の軸となる。それが無ければ土地に対する愛着は生まれず、土地を育てていこうという気運も生まれない。

この、帰属意識をどう育て、捨て難い記憶にし、伝えていくのか。町の建設計画は常にどういう人の記憶と文化を作っていくのか、ということと一体になっていなければいけない。そこは決して変わってはいけない。20年30年の月日とともに、世代の記憶が積み重ねられ、年が経つほどに増々魅力が増し、また新しい若い世代が育って新たなよりどころにしていけるようなものを作らなければいけない。

これに関連して、日本では、「神社」がその大きな役割を果たすという話しを聞いたことがある。

実際に、新しいニュータウンが建設されたとき、そこに神社を作った場合と、神社が無い場合では、その後の土地の盛衰に大きな影響を及ぼすらしい。神社があれば、土地に対する土着的な愛着と信仰の拠り所になり、祭りも生まれ、大切にしようという気持ちが生まれる。これは、日本人が古来持っていた知恵なのかもしれない。

今度、神戸で地域政党が立ち上がる。

東北の震災はまだ復興の途上。

そして、東京都知事選では、オリンピック「後」についてのケアを求める声があがっていた。

“オリンピックで経済を活性化させるのは良いが、閉幕後の東京もしっかりと考えてもらいたい。壊して、作って、壊しての繰り返しは見たくない。

まさにそう思う。

都市開発計画を建てるあらゆる行政、政治家、建設会社の方には、ぜひ、ポートアイランドの惨状を視察してほしい。そして、あれを繰り返さないようにしてほしい。100年単位で何世代に渡って積み重ねられる人の記憶と文化の育成を、都市計画の中心に据えてほしいと思う。